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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    二 原糸流通組織の構造と人絹取引所の成立
      人絹会社と福井市場
 表24(表24 人絹糸会社別人荷高(1928〜36年))に福井県への人絹糸会社別入荷高を掲げた。一九二八年(昭和三)では帝人品がもっとも多く、過半を占めており、旭ベンベルグ(旭絹織)がこれについでいる。これ以後、人絹糸生産会社の増加にともない、会社別入荷高は分散する傾向をみせる。帝人のシェアに着目すると、二八年をピークに、ほぼ毎年のようにシェアは減退し、福井県入荷高に占める地位も、三二年までは第一位であるが、三三年以降は五位以下に転落している。かわって第一位となったのは三三年は東洋紡績、三四、三五年は倉敷絹織、三六年は日本レイヨンである。このほか旭ベンベルグ、東洋レーヨンもつねに上位に顔を出していた。
 帝人のシェア減退は帝人自身の戦略にもとづくところが大きいと思われる。すでに帝人品が第一位を保ち、オッパ取引がさかんに行われていた三一年において、実需を背景とする昭和人絹(のちの東洋紡績)、東洋レーヨン、旭絹織の「三銘品」との価格差が縮小し、これら三銘品の進出が著しかった。帝人側は「今後の販売方針につき協議の結果福井地方のヨリ以上発展は望まれぬものと……両毛方面に主力をそゝぐことゝなり、すでに直属特約店出張所等を同方面に増設」しているという(『福井新聞』31・5・14)。また三二年四月には「最近機屋並びに商人間における各社品の優劣比較は大体において昭和、東洋、倉敷これにつぐは旭絹織、第五位に帝人、つぎに日本レイヨンとの評あり」といわれ、帝人品の品質面での評価も芳しくなかったのである(『福井新聞』32・4・14)。
 人絹会社と産地との関係をみるさい、産地商人側がどれほど自立していたかが検討課題となるだろう。人絹糸の場合は、人絹会社が特約店網をくり広げ、産地商人はこれら特約店から供給をうけていると考えられている。福井県の人絹特約店は、帝人が西野藤助商店・中辻嘉三郎商店・田中商店福井支店、東洋レーヨンが西野藤助商店・中辻嘉三郎商店・田中商店福井支店・酒井商店、旭ベンベルグが酒井商店となっている(神戸税関『人造絹糸に就いて』)。
 人絹糸は、会社ごとに品質が微妙に異なるために福井県工業試験場では混織しないようたびたび警告していた。したがって機業家は特定会社糸を使う傾向があったが、産地側が人絹会社もしくはその特約店に従属的であったわけではない。たとえば、表24によると三四、三五年に福井県入荷高第一位だった倉敷絹織品は三六年には入荷高も減少し、第五位に転落している。これにはつぎのような事情があったようである。福井県織物同業組合では毎年評議員、代議員の織物産地・人絹工場見学を行っていたが、三五年には西廻りコースの一つに倉敷絹織新居浜工場見学を予定していた。ところが、事前に照会済みであるにもかかわらず当日、現地で見学を断られ、かわりに「お昼の用意がしてあるからと御馳走戦術に出た」ので、一行は憤慨して引き揚げてきた。この事件で県織物同業組合では同社品のボイコットを検討しはじめた(『福井新聞』35・12・1)。ボイコットがどのように行われたかは不明であるが、翌三六年にたしかに倉敷絹織品が減少し、しかも同社の倉敷工場品はふえたにもかかわらず、新居浜工場品が激減しているのである。このことから新居浜工場品のボイコットは行われたと推測することができよう。県織物同業組合の意向、換言すれば産地商人、機業家の意向により人絹会社もしくは工場を変更することは可能であった。



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