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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    二 原糸流通組織の構造と人絹取引所の成立
      福井人絹取引所の事業
 まず、図26により格付清算取引の売買数量と受渡数量をみてみよう。売買数量は、月ごとの変動が非常に激しいが、そのなかでも一九三二年(昭和七)下半期、三五年下半期、三六年末から三八年初頭にかけて売買高が増大し、三八年七月以降、急速に減少していった。また三三年下半期から三五年上半期にかけては売買高はきわめて少なかった。
図26 福井人絹取引所の格付清算取引状況

図26 福井人絹取引所の格付清算取引状況

 三二年下半期は、人絹糸価格は高騰を続け、これにともなって売買高が増大した。各月の最高価格と最低価格の差を最低価格で除して求めた価格変動率を図27にまとめた。三二年下半期は、前後の時期と比べて非常に変動が大きかったことがわかる。福井人絹取引所『事業報告書』も一一月の商況について「……月央時ヨリ再昂騰シテ買気横溢シ月末ニハ新高値ヲ出スニ至リ終始波瀾ニ富ミタルヲ以テ売買出来高之ニ準シ二十四万余枚ノ多額トナレリ」と説明している(福井人絹取引所『第二回事業報告書』)。
 三三年に入ると三月には英領インドの関税引上げ、アメリカの金融不安等により一時立会停止のやむなきにいたり、「相場ノ変化亦縮少シテ」売買高は激減した(福井人絹取引所『第三回事業報告書』)。翌三四年にはいっそう売買高は減少し、価格は停滞した。人絹取引所専務理事の西田豊吉は「最近における人絹相場は釘付のやうになつて値開きも極く僅かで一面ハキハキしない関係で取引所出来高も余り香しくない。」と述べている(『福井新聞』34・9・27)。その原因は「各社の新設増設による供給過剰の不安人気に加へて織物未曾有の好況に関係筋の投機熱が頽廃して来たもの」とみられた(『福井新聞』34・12・30)。また、人絹取引所会員稲津喜代治の「機屋などもこの頃は算盤がもてるから生産に忙しくて清算などに顔を出さぬ様になって来た」(『福井新聞』34・8・17)という指摘は興味深い。従来のオッパ取引をはじめとする清算市場が機業家の参加のもとに成り立っていたことがうかがえる。
 こうした売買高の停滞は、三五年下半期から徐々に解消され、売買高は増加傾向をたどった。これについて人絹取引所『第八回事業報告書』は「人絹生産会社ノ操短問題並ニ伊エ戦争勃発等ノ為メ商況相場共頗ル波瀾曲折ヲ呈シタル」ことを理由としている(福井人絹取引所『第八回事業報告書』)。三六年末には「環況高ノ影響ヨリ活況ヲ呈シ大暴騰ノ波瀾ヲ生スル」(福井人絹取引所『第十回事業報告書』)等により売買高が激増し、翌年初頭にはこれらの事情に為替管理強化が加わり、ますます活況を呈した。三八年下半期には人絹糸にリンク制が適用され、相場は固定し、清算取引の意義がなくなったことから売買高は急減し、停止した。
 価格変動率を示した図27を全体としてみるならば、人絹取引所開設後、取引所で形成される人絹糸相場は、それ以前の相場に比べ三二年下半期をのぞき、安定していることがわかる。『福井新聞』、『大阪朝日新聞』などの相場欄も、人絹取引所開設後はオッパ相場にかえて人絹取引所相場を掲載するようになり、人絹取引所が福井のみならず全国の人絹相場の標準とされたと評価することはできよう。
図27 福井人絹糸価格の変動率(1929年1月〜38年12月)

図27 福井人絹糸価格の変動率(1929年1月〜38年12月)

 つぎに表23により福井県への人絹糸入荷高と人絹取引所取引高とを比較してみよう。入荷高に対する売買高の倍率は三二年が約六倍、三三年が約一〇・四倍、三四年が約四・二倍、三五年が約七・一倍、三六年が約六・八倍であった。一方この間の受渡高は入荷高の二・六%から五・九%であり、きわめて低かった。三一年上半期の福井県への入荷高一一万九三一五・五梱に対して上半期の総取引高推計値は一二一万梱であるから入荷高の約一〇・一倍となる(『福井管内織物業の変遷と其法律的考察』、福井レーヨン特報社『福井人絹会館新築落成記念』)。オッパ取引を含む人絹糸売買は人絹取引所設立以前には入荷高の約一〇倍に達していた。人絹取引所の売買高が入荷高の四倍から一〇倍で推移したことは設立前の清算取引をかなりの程度吸収しえたと評価できる。

表23 福井人絹取引所の売買高・受渡高(1932〜36年)

表23 福井人絹取引所の売買高・受渡高(1932〜36年)
 もっとも設立年の三二年においては、銘柄別清算取引がはなはだしく不振であったために、その不振の原因が場外取引の多さに求められ、オッパ取引もまださかんに行われていることがくり返し指摘された(『福井新聞』32・5・20、26、28、31、6・10、11、19、29)。しかし、銘柄別清算取引の振興策を見い出せず、自然消滅もやむなしとの見方が支配的となって以降、場外取引も問題視されなくなった(『福井新聞』32・7・30)。また、場外取引のなかでもオッパ取引は「全然頽廃しその影すら認められなくなつた」といわれ、順次取引が中心となっていたのである(『福井新聞』32・10・20)。このように福井人絹取引所の事業の展開によって、オッパ取引は一時衰退したとみることができよう。
 しかし、三五年なかばには、人絹ブローカーが「問屋筋の差別を顧みず、或ひは共同事務所を設け、或ひは現物を店頭に積んで売買する」という事態が横行し、市中取引ははなはだ無統制となっていた(『福井新聞』35・8・25)。このため福井レーヨン商組合では、あらためてブローカーを公認することとした。公認の条件は、福井市場において五か年以上人絹業に経験を有する者、または五か年以上一定の商店に勤務し、雇主の承諾をうけた者とし、集合事務所ならびに類似行為をなす者は公認しないこととしたのである(『福井新聞』35・8・14)。これによって五八名のブローカーが公認された(福井県織物同業組合『五十年史』)。



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