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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      織物工場の規模
 表19(絹識物・絹綿交織物製造場数と1製造場あたりの織機台数・職工数(1926〜41年))によると、人絹織物を含む絹織物・絹綿交織物製造場は、一九二六年(昭和元)から三六年にかけて約三・三倍となった。また、織機台数別にみると一〇台以上五〇台未満が、もっとも多いという構造は変わっていない。ただし、五〇台以上が比率ではもっとも小さいものの、四一年まで増加を続けることは注目できる。増加の度合いは大規模製造場ほど大きい。人絹織物全盛時代には機業家の増加と大規模化が進んでいたのである。
 つぎに規模の推移を一製造場あたりの織機台数、職工数からみてみよう。織機台数は二五、二六台前後で推移し、三五年以降毎年増加している。製造場規模別には五〇台以上製造場がもっとも顕著に拡大しているが、一〇台未満製造場もわずかながら拡大傾向を示す。これらに比し中間の一〇台以上五〇台未満製造場の停滞ないし縮小がめだち、「両極分解」の様相を呈しているのである。職工数では、二八年をピークに以後減少している。規模別にはいずれの階層でも減少している。これらの当然の帰結として職工一人あたり織機台数は増加した。職工一人あたり織機台数を製造場規模別にみると、一〇人以上五〇人未満層がもっとも多く、五〇人以上層がもっとも少ない。実際の職工の受持ちは二台から四台であり、大規模工場においてその数値が減るのは、織機以外の糸繰機・管巻機・撚糸機などを受け持つ職工が相対的に増加するからであろう(福井県工業試験場『人絹製織工場能率調査報告書』)。
 織物工場の規模は、地域差も大きかった。木村亮によると、三八年時点には機業規模によって三地域に区分することができる(資17「解説」)。それは織機台数一〇台未満が半数近くの四二・九%を占める足羽郡、五〇台以上あるいは一〇台以上五〇台未満の比率が相対的に高い大野・今立郡、そしてそれらの中間に位置する福井市、吉田・坂井郡である。
 大野郡勝山町には、勝山機業兄弟合資会社、合資会社松文機業場の二大機業をはじめ大規模機業が人絹織物を製織していた。また同郡鹿谷村では、農業恐慌打開策として村会が三三年吉田郡東藤島村の吉岡機業場の分工場誘致に成功し、三五年一〇月に織機約一二〇台、撚糸機二四〇〇錘、職工約一〇〇名の大規模機業場が操業開始した。鹿谷村は、村内に越前電鉄の駅をもち、交通の便がよく、一戸あたり耕地面積の狭さを他郡への通勤・労働力流出により補っていたという(『勝山市史』通史編3)。労働力不足に悩む人絹機業がこうした地域に進出し、機業規模の地域差をもたらしたとみることができるだろう。



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