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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      人絹織物の仕向先
 表20に朝鮮および外国仕向先別輸移出高をまとめた。数量でみると州別にはアジアが最大で、ついでアフリカ・大洋州がそれぞれ一割程度を占めている。欧米の先進国市場はきわめて小さいシェアである。国(地域)別にみると一九三三年(昭和八)には(1)英領インド、(2)蘭領インド、(3)朝鮮、(4)オーストラリア、(5)エジプトとなり、三七年には(1)朝鮮、(2)英領インド、(3)蘭領インド、(4)オーストラリア、(5)関東州となっている(山崎広明『日本化繊産業発達史論』)。首位が英領インドから朝鮮にかわり、満州・関東州市場の比重が高まってきている。蘭領インドは三四年二月に人絹サロン、三五年に人絹織物全般の輸入制限措置をとったために、輸入数量を減少させている。三六年にはオーストラリアが関税引上げ、輸入制限を、また、エジプトが関税引上げを行った。このように主要仕向国において輸入防遏策が次々にとられたが、日本品は、より遠隔の小市場をあらたに開拓しながら輸出数量を伸ばしていったのである。

表20 人絹織物の仕向先

表20 人絹織物の仕向先
 その結果、三四、三五年には中南米、アフリカ、大洋州のシェアが高まっている。しかし、これらの地域でも、日本人絹織物の急激な進出に対して、英帝国圏においてはオタワ協定にもとづく関税引上げ、三三年のロンドン国際経済会議の失敗、三四年の日英民間会商の決裂を機に輸入制限措置が続々ととられていった。また中南米諸国においては貿易収支の均衡をはかるために為替管理が強化され、日本品輸入数量は頭打ちとなっていった。三六年に人絹織物あるいは人絹織物・綿織物合計に対する輸入割当を行っていた国(地域)は、英領マライ、セイロンなどアジア四地域、ソマリランドなどアフリカ七地域、トリニダード・トバコ、ジャマイカなど中南米二〇地域におよんでいた(神戸絹人絹輸出組合『本邦絹人絹糸布現勢』)。かくして輸出数量合計は三六年をピークに以後減少に転じたのである。
 このような国際環境のなかで、ひとり朝鮮向け移出のみが増大を続けている。ただし、朝鮮仕向のうち満州方面へ再輸出されたものが三六年八月から一二月で五七八万一〇〇〇平方ヤール、三七年一月から五月で二〇三〇万五〇〇〇平方ヤールにものぼっている(神戸絹人絹輸出組合『朝鮮経由人絹織物輸出問題と鮮内人絹業界の実情に就いて』)。関東州向け輸出もそのかなりの部分が満州へ輸送されたので満州における消費高は表示された数値よりも大きいのである。人絹織物においても満州・関東州市場は徐々にその重要性を高めてきていた。



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