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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      技術の導入・伝播
 福井県における織物品種は、第一次世界大戦以降めまぐるしく変化してきた。一九二七年(昭和二)における産額を一八年(大正七)の産額と比べると、大戦期に中心であった羽二重、縮緬はそれぞれ五割減であり、これに対し絹紬が七倍、富士絹が八倍に達している(日本銀行調査局『福井県ニ於ケル人絹機業ニ就テ』)。三〇年における福井の輸出絹織物検査所検査高をみると、羽二重が三九万七〇〇〇疋(四三・〇%)、絹紬が三二万疋(三五・〇%)、縮緬が四万七〇〇〇疋(五・二%)、富士絹が四万四〇〇〇疋(四・七%)であった(木村輿吉「本県に於ける機業」『郷土研究』1)。
 絹紬は、中国遼寧省安東県より輸入する柞蚕糸(山まゆから取り出す糸)を原料とする。戸田政吉(丸岡町)、島崎正一(春江村)らが岐阜から製織技術を学び、試織をはじめ大戦期に急増し、絹紬精練業者もあらわれた(福井県織物同業組合『五十年史』)。大正末に全盛期を迎え、柞蚕糸消費量をみると、二三年に約二七万貫(各種原糸の四一・二%)に達する。以後数量は停滞し、三一年から三三年に第二のピークを迎えたものの、各種原糸に占める相対的比重は低下し、二九年以降は数%にすぎない(『福井人絹織物発展史』)。衰退の原因は、柞蚕糸の不作による原糸価格高騰、原糸の供給不足である(『福井県繊維産業史』)。
 富士絹は、関東大震災により関東地方工場消失を機に福井県機業家が着手するが(福井職業紹介所『福井地方に於ける繊維工業について』)、その原料となる絹紡糸の消費量をみると、二七年に約二二万貫(各種原糸の二一・一%)に達するまで増大し、これをピークに以後減少する(『福井人絹織物発展史』)。高木重三郎の平和織物株式会社(木田村)、坂井乙治郎(西藤島村)をはじめとして製織者がふえたが、石川県のマルサン工業組合との競争に敗れ、衰退していった(福井県織物同業組合『五十年史』)。
 これらに代わって昭和期に他を圧倒するのが人絹織物である。原糸消費量では二四年の約七〇〇〇貫から二九年には約一四九万貫(各種原糸全体の六二・〇%)、三五年には約九三〇万貫(九〇・二%)にまで達する(『福井人絹織物発展史』)。品種別織機台数も、二七年六月には(1)羽二重類、絹紬類、富士絹類、縮緬類、人絹織物であったが、二八年六月には(1)人絹織物、羽二重類、絹紬類、縮緬類、富士絹類と変化し、早くも人絹織物がトップの座についている(日本銀行調査局『福井県ニ於ケル人絹機業ニ就テ』)。
 三五年に福井県工業試験場が出した『人絹製織工場能率調査報告書』は、県内の二四戸の機業につき詳細な調査データを掲載しており、人絹で新規開業したものはもっとも多い七戸、羽二重から転換したものは三戸、綿織物から転換したものは二戸、絹紬から転換したものは二戸などとなっている。しかも、人絹織物に着手した後の織機台数の増加したものが一〇戸にのぼる。
 三四年二月末には「原糸安と新販路開拓等により製品売行良好を示し、これまた採算有利となり、一反につき機屋によつては一円内外の収益を得てゐる」といわれ、五月には「輸出景気」による活況で一一月もの、一二月ものまでの約定が入り、「機屋に引受余力がないので新規注文はことはつてゐるものさへある」という。一般機屋は一疋の人絹紋織物に五、六円の工賃を得て「採算点の上位を往来」しているという(資12上 六六)。このような状況で新規開業、織機増設が可能だったのだろう。
 また、三〇年代なかばには帝国人絹の「帝人ダイヤ」、東洋レーヨンの「東洋マルチ」、旭絹織の「旭マルチ」などの高級人絹糸を用いた高級人絹織物が全盛となり、三五年には人絹織物の約半数がこれら特殊人絹織物で占められたといわれる(福井県織物同業組合『五十年史』)。
 県内の織物産地は福井市を中心に九頭竜川流域(越前電鉄沿線)、省線沿線に広がっていた。地域的特徴をみると、越前電鉄沿線の松岡、志比堺方面では羽二重からポプリン、綾、朱子などの綿織物を経て、人絹の縮緬、朱子、綾、縞、紋、パレスなどを産するにいたった。大野、勝山は羽二重から人絹のダイヤ、マルチなどの高級糸を用いた双人平、縞、縮緬、ジョーゼット、塩瀬、パレスへ転換した。省線沿線では森田方面が紋羽二重から人絹の紋、縮緬、パレス、朱子へと転換し、丸岡は内地向け絹織物から人絹の絽、縮緬、パレスへと転換している。武生、鯖江方面は羽二重、富士絹、絹紬から双人平、紋、パレスへと転換した(福井県織物同業組合『五十年史』)。



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