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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      織物生産の推移
 第一次世界大戦期に活況を呈した絹織物業は、戦後恐慌をはじめとする一九二〇年代の長い不況過程に突入した。アメリカにおける人絹織物の台頭、関税引上げ、日本側の労賃コスト上昇によって採算も不利となり、対欧米輸出は不振を続けた(『福井商業会議所報』26・10)。福井県織物同業組合の統計によると一九二〇年(大正九)の県絹織物生産価額は約一億九七六万円であったが、これ以後ほぼ毎年減少を続け、二七年(昭和二)には約七〇七一万円となった。とりわけその大部分を占める輸出向け絹織物価額は、同期間に四三・一%の減少を示した。県内の力織機台数も二一年の約二万九〇〇〇台から二五年には約二万六〇〇〇台に減った(福井県織物同業組合『五十年史』)。
 この不況過程の二五年七月福井商業会議所は、全国商業会議所連合大会の諮問案「我が国産業貿易発展上の欠陥と認むべき事項並これに対し商業会議所として執るべき有効適切なる方策如何」に対し、以下のように答申している(『福井商業会議所報』25・7)。
  一、原料輸出の方針を変じ製品輸出の対策を講ずべし
  綿及び毛の如きは原料を輸入し僅かに之に加工して再輸出をなすに過ぎざれば一種の工
  賃工業たるのみ。独り蚕糸に関する工業は、原料及び加工共に之を自給自足するものにし
  て本邦貿易総額の約七割を占む。然るに従来我が貿易の政策は原料品としての生糸の輸
  出に万善の努力を払ひたるも製品としての織物に就ては遥かに之に及ばざるの観あるは 
  遺憾なりとす……。
  三、原料(生糸綿糸等)の製品統一は不可なり
  我国に於ては誤つたる貿易政策の結果、生糸の輸出に全力を注ぎ、而して其の輸出は専ら
  米国を対象とする大量製産に傾けるを以て、品位統一の必要上米国向きの生糸に統一生
  産するに至りしは寔に時勢に逆行せる時代錯誤と謂はざるべからず。十年以前を顧みれば
  我が国に於ける生糸は産地の奥州たり山陰たり四国たり九州たるにより各地特有の品位を
  有せしを以て、織物の種類に応じて原料の撰択自由なりしも、今や……品位統一の名に依
  りて各産地の特徴を失ひ……。
 この答申では、蚕糸業(生糸・絹織物)が他繊維に比して外貨獲得上重要であること、そのなかでも加工度の高い絹織物が重要であることを主張している。また、大戦後において生糸の品種統一・高級化が進んでおり(大石嘉一郎編『日本帝国主義史』1)、絹織物不振の背景に原料問題(絹織物業にとって最適な原料の確保)があったことがうかがえる。
 図22に県内各種織物生産価額の推移を示した。『県統計書』の織物生産額統計は、人絹織物の数値が得られない(資17 「解説」)ので、同業組合統計で補いながら、各種織物の相対的関係を示した。まず、二九年までは、人絹織物生産額の数値が不明だが、絹織物と人絹織物を加えた数値が継続して得られる。これによると、福井県では一貫してこの両者が織物の大部分を占めていることがわかる。問題は、両者の内訳だが、輸出人絹織物検査高が大正期より判明するが、二一年の二七二円にはじまり、以後ほぼ毎年一桁ずつ検査高を増し、二六年には約一八六万円に達する。ただしこれまではすべて「人絹綿交織」である。双人絹織物は翌二七年に統計に表われ、人絹綿交織とほぼ同額を記録し、以後交織を引き離して急増している(『福井人絹織物発展史』)。
図22 福井県の織物生産額(1922〜41年)

図22 福井県の織物生産額(1922〜41年)

 二八年一〇月に人絹糸消費量(約二六万貫)が生糸消費量(約二四万貫)を凌駕した(『福井県繊維産業史』)ということを考慮すると、図22の輸出人絹織物検査高に加えて、相当量の内地向生産があったものと思われる。三〇年以降は、同業組合統計の系統が商工省『綿織物及絹織物年表』から得られる。これによると、人絹織物産額が、絹織物産額を凌駕し、福井県産織物の大部分を占めていくことがわか。



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