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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
    三 民衆娯楽の普及
      スポーツの普及
 中等学校を中心に普及してきた野球やテニス、スキーなどのスポーツは、一九二〇年代には小学校や一般県民にも広がっていった。このうち、もっとも早く普及した野球については、一九一五年(大正四)からはじまった全国中等学校野球大会に、福井県からは一八年以降参加していた。小学生についても二〇年には全国的な大会が開かれ、福井県下でも二二年には、福井新聞社主催で第一回の小学校野球大会が開始された(『大正昭和福井県史』下)。
 運動施設の整備もしだいに進み、一七年に福井市営公開運動場がつくられたのをはじめとして、福井市では二五年に第二公開運動場(テニスコート)、翌年に明里運動場が設置された。さらに二九年には武生町に公開運動場が開設された(『福井新聞』29・7・9)。
 小学生の野球熱は、大会の主催者である福井新聞が積極的にとりあげたこともあって急速に高まり、二五年八月の第四回大会には、福井市を中心に遠敷郡今富小学校、敦賀郡敦賀南小学校を含む県下一九校が参加していた。さらに翌二六年からは県下小学生庭球大会も開催された(『福井新聞』25・8・15、『福井県体育史』)。
 こうしたスポーツの大衆化は、同時に「一部ノ愛好者ノ専有」や「徒ニ勝敗ニ捉ハレ尚フヘキ運動精神ヲ閑却スルカ如キ弊」(県訓令第九号)が憂慮される状況をも生じさせており、文部省は翌二七年(昭和二)一〇月には中等学校以下の生徒児童の全国的な総合競技会への参加を原則として禁止する通牒を発した(県学乙第四二八二号)。
 この通牒は、直接には全国的な総合体育大会であった明治神宮競技大会への参加を規制したものであったが、二八年の県教育会では、小学生も含めて一七年から毎年開催されてきた若越体育大会のあり方が議論された。この後、小学校児童陸上競技大会を独立させ、中等学校(学校対抗)・教員(郡対抗)の部による大会が実施された(『福井新聞』28・5・10、29・9・25)。
 一方、福井県スキー協会(一九二七年)、県卓球協会(一九二八年)などの体育団体もあいついで結成され、三〇年(昭和五)にはこれらの県下の体育団体を組織する福井県体育協会が知事を会長に設立された(『福井新聞』30・9・22)。
写真14 スキーを楽しむ人びと(大野郡六呂師)

写真14 スキーを楽しむ人びと(大野郡六呂師)

 三二年三月には「野球ノ統制並ニ施行ニ関スル件」、いわゆる「野球統制令」が発せられ、小学校では校内試合を原則(対外試合には校長の許可が必要)とし、宿泊や応援団の組織も禁止された(竹之下休蔵・岸野雄三『近代日本学校体育史』)。さらに二四年から実施されていた全国体育デーは、この三二年から「体育祭」の形式で、国旗掲揚、君が代奉唱、団体行進、合同体操などを行うこととされ、一連の国家的な儀式が奨励されることになった(旧内外海村役場文書)。
 さらに三八年一月に厚生省が設置されると、国民体力の増強のために、スポーツの国家的な管理が強力に推し進められることになる。



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