目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      職工事情
 機業で働く職工の数は、一九三〇年(昭和五)に二万二〇〇〇人あまりであったが、これが三四年に四万人を突破し、翌三五年には四万四〇〇〇人あまりへと倍増した(福井県織物同業組合『昭和十二年統計一覧表』)。そして、三四年の段階では、その約三分の二が自宅あるいは寄宿舎から通勤する農村の子女であったという(資12上 一五五)。さらに三六年一〇月の福井職業紹介所のデータによれば、女子・男子ともにその九割近くが県内出身者であった。残り一割あまりの県外出身者は、朝鮮と長野・石川県の出身が多く、やや差をひらいて新潟・富山県の出身がこれについだ(『福井地方に於ける繊維工業に就いて』)。
 機業の職工は、糸繰・糊付・管巻・整経・撚糸などの「下拵」といわれた製織準備に携わる準備工と、受持ちの織機で製織を請け負う織工、織機の運転手、各種機械の保全工などに大別される。糸繰・糊付・管巻などにも一部女工が配置されたが、製織を担う織工に多くの女工が用いられ、「ハタおり」や「おりこ」の通称で呼ばれていた(笠松雅弘「昭和戦前期の人絹機業と勝山地域」『福井県立博物館紀要』4)。
 職工の賃金は、運転手や準備工などが日給で、織工の場合は織り上げた量に応じて工賃(織賃)が支払われる出来高払いが一般的であった。織賃は、機業場や製品によっても多少異なったが、三五年ころの織工の平均日収は、小学校卒の見習工の場合で三〇銭から四〇銭、織機二、三台をうけもつ熟練工で七〇銭から八〇銭であった(資12上 一六〇)。いま農家の子女が熟練工として一年間勤めたと仮定すると、年収はほぼ二五〇円に達する。さきにみた三五年度の『農家経済調査成績』では、農家一戸の年間家計費が平均約六五〇円であるから、一人でその三分の一以上を稼ぐということになる。
 とくに機業の発展がめざましかった三四年は、織機や職工の不足が深刻な問題となり、各地で職工の争奪戦がくり広げられた。そのようすは、「一部の機屋では、(織機)運転手に仕事を休ませて、腰弁当で織工募集に村落廻りをさせるものもあり、一方では織工一人を周旋する者に対して三円乃至五円の謝礼を払つて、織工のかり集めに機屋は血まなこ」で、さらには「織工の足止策を積極的に考案して、優遇法にベストをつくし、さかんに休日を利用して慰安デーを催してゐる」という具合であった(資12上 六六)。このころ機業界では、旅行や運動会、臨時手当の給付など、職工慰安のための行事や企画がますますエスカレートし、「職工天下」の時代が到来したかのような感があった(笠松雅弘「昭和戦前期の人絹機業と勝山地域」『福井県立博物館紀要』4)。
 しかし、機業家が職工争奪の防止策を講じないわけではなかった。解雇後三か月を経ない場合は前雇主の承認を得て雇用する、というような組合協定を結んだのである(『大阪朝日新聞』34・8・24)。こうなると、職工はよりよい条件を求めて工場を変えることが困難となり、長く見習工として低賃金を強いられるケースもあったようだ。三四年に全国を行脚して農村ルポルタージュ『踏査報告 窮乏の農村』をまとめた社会主義経済学者の猪俣津南雄は、「時めく農村人絹工場を観る」と題して、福井市近郷の農村社会についてふれている。そこでは、最低でも朝六時から夜八時までの一四時間、出来高払いのために休む間もなく働き続ける女工の姿が紹介されている。嫁に行くまで工場と寄宿舎で歳月を費やす女工たちを「篭の鳥」となぞらえ、人絹ブームにかき消されようとする悲惨な工場労働の実態を伝えている。そして、機業と共存共栄をはかる福井市近郊の農村では「比較的裕福そうな農家」が多いが、農業の粗放化が進んで、農村が農村でなくなりつつあることを憂えている。
 またこの時期には、人絹織物業の好況と対比させて、全国上位にあった乳幼児死亡率の高さが問題視された。子守をする娘や母親が工場にかよいつめれば、乳幼児の世話がおろそかになることは必定であった。そのため、三一年なかばには、勝山町の松文機業場のような大きな工場で自ら託児所を開設するところが現われた(『大阪朝日新聞』31・5・24)。これが三四年になると、中小の機業で職工誘致のために工場内で子どもの世話をするところも現われたようだが、機業・職工の急増を眼前にして、県としても託児所の設置奨励にいっそう力を入れざるをえなくなったのである(第二章第一節三)(『大阪朝日新聞』34・9・16)。



目次へ  前ページへ  次ページへ