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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      農村と機業
 福井県の人絹織物業は、恐慌の逆風のなかで成長をとげた。一九三〇年(昭和五)から三五年にかけての新聞紙面には、「人絹ばかり好景気」「ますます増える人絹織物」「人絹糸入荷、またも新記録」「人絹織物業全盛時代」などの見出しを掲げて、人絹織物業の動向を報じる記事が、ひとり威勢をふるっている。この不況のなかでの人絹織物業の発展は、たんに都市商工業ばかりの問題ではなかった。もとより郡部に広がるという福井産地の特質がいっそう顕著となり、農村社会の変容が進んだのである。
 人絹織物業の発展を底辺で支えたのは、いうまでもなく膨大な農村労働力であり、在村通勤形を主軸とする職工農家の群生であった。一方、農村・農家にとっての機業の存在は、恐慌下に農業収入の減少を補うのに好都合であった。婦女子を中心とする家内の余剰労働力を使って、職工として工場で賃金労働を行うことが容易になったのである。こうした機業と農家の利害の一致が、「人絹王国」をより謳歌させたのであった。
 では、機業の発展が農村社会にどのような変化をもたらしたのであろうか。その典型的な事例として、大野郡の機業地勝山町に隣接する村岡村の動向をとりあげてみよう。
 村岡村では、かつて冬期に大阪へ出稼ぎに立つ者が約五〇名を数えた。しかしその後、工場労働者(職工)となる者が毎年二〇名から三〇名ずつふえ続け、三七年には出稼者がほとんどいなくなった。そして、三五年には戸数四四四のうち、農業戸数が四三九から四一七へと減少し、副業に有利であったはずの葉たばこの耕作も減退する傾向にあった。機業に労働力が吸収されるように、農家の農業離れが進んでいったのである。
 この農業離れの傾向は、従来の地主・小作関係にも大きな変化をもたらした。すなわち、土地小作の希望が少なくなり、小作農家が地主に土地を返還するケースもみられるようになったのである。そのため、やむなく自ら耕作をはじめた者もあったが、農業の不振から中堅以上の地主もまた耕作地の拡大を望まず、結局土地は五反から六反の小規模な耕作地をもった自作農家(小地主)に集まりつつあった。また、機業の活況により労働力の需要が高まるにつれ、農業労賃が騰貴し、小作料は年を追って低減せざるをえない状況にあった。つまり、農業に専念する中堅以上の地主の経営が、しだいに困難になっていったのである。
 こうした現象は、多かれ少なかれ機業地の周辺地域によくみられたことであった。地主が組合をつくって朝鮮人労働者を雇い、より安価な労賃で比較的大規模経営を試みるところも県内には二、三あったようだが、農業労働力の不足と耕作意欲の減退が要因となって、従来の地主・小作関係に依拠する地主経営が危機に瀕したのである(資12上 一六〇)。
 さらに、婦女子を中心とする恒常的な農業従事者の喪失は、必然的に農業の粗放化を招いた。農外収入への依存が高まるほど、これまでのような除草や堆肥の製造、人肥の運搬など、人手のかかる農作業は簡略化がはかられたのである。三七年には、県経済部が「機業地農村」と「純農村」との農業労働の動向について、前者六か村・後者四か村を選んで比較調査を行った。これによれば、機業地農村では、農繁期をのぞいた農家一戸あたりの年間農業従事者の割合が一・七三人で、純農村に比べてほぼ一人分少ないという結果が出ている。しかも、機業地農村では従事者に若年層が少なく、五〇歳以上の男女が半数近くを占めるという、労働力の老齢化がみられたのである(『福井県農会報』37・11)。
 しかし、こうした労働力の不足や老齢化に対処するように、農業の機械化がある程度進んだことも事実である。福井県では脱穀・籾摺・精米・製縄機などに用いる電動機(モーター)が、まず二〇年代後半から三一年にかけて急速に普及した。農林省の調査によれば、三一年なかばに福井県の農業用電動機は一一〇〇台あまりを数え、その数は全国で六番目に多かった。そして、これが三五年以降にふたたびふえはじめ、三七年に二〇〇〇台、三九年には三〇〇〇台を突破した(『農業年鑑』)。これは、農家組合をして電動機を据え付けた共同作業場の設置や移動式小型電動機による共同利用が奨励された成果でもあった。
 このほかに、足羽郡や吉田郡でとくに顕著であったが、機業地への人口集中がみられた。両郡の場合は、三〇年から三五年にかけての人口増加率が一七%という、全国的にも異例な高さを示した(『昭和十年国勢調査概報』)。そして、この労働者が集まる機業地での需要を見込み、周辺地域で蔬菜の栽培がさかんになったことも、機業があたえた農村への影響の一つにあげられよう。



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