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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      経済更生運動
 一九三三年(昭和八)五月末には、県に人員三〇名を擁する経済更生課が新設され、この主管課の設置を契機に、経済更生運動が本腰を入れて取り組まれることになった。
 同課は、後述する負債整理組合の設立と運動のいっそうの普及に力を入れ、後者においては各地で懇談会を催し、「一銭貯金」や「早起励行」のような、簡単でも一つの事項を全村民一致で実行することを奨励した(『大阪朝日新聞』33・7・19)。この「一村一事・即決即行主義」は、福井県独自の方針として採用されたもので、町村を指定して総花的な計画を樹立・実行させようとする政府案とは、やや趣旨が異なっていた。まずは着実な路線を歩ませようとしたのである。七月中旬に大野郡富田村の小学校で開催された経済更生懇談会では、八月初旬に第一回の不買週間を設け物品の購入をしないこと、理髪は老若を問わず丸刈りに改めること、晩酌は一合以内とすること、履き物の緒を手製のものに改めること、各種会合は時間を励行をすることなど、日常生活における経済更生の実行事項を決議した(『大阪朝日新聞』33・7・23)。
 ところが、運動は全般的に低調ぎみで、同年末には「最近一般に更生運動なるものが口にせられるのみで、その実績があがつてゐないし、動もすれば忘れがちの状態にある」との反省から、運動に携わる各種団体、指定町村の関係者を集めた協議会が県農会で催されることになった(『大阪朝日新聞』33・12・16)。その席上、三二、三三年度の指定三五か町村の指導者に対して、「現在の更生計画は、兎角声のみに止まり、実行に乏しき嫌ひがある」との酷評が下され、「指定町村は他町村の模範となる」ことが求められた(『大阪朝日新聞』33・12・22)。しかし、翌三四年度も、あらたに二〇か町村が追加指定されたが、例年にない大雪の被害や「室戸台風」に代表される風水害、そしてまた繭価の暴落という種々の障害に阻まれ、計画の進捗は皆無に等しい状態であった。
 そこで、三五年度から新しい運動の方策として、指定町村の内部で各区・大字の計画達成度を競い合わせる「部落競進会」の導入がはかられた。あらかじめ設定した実行項目ごとに各区の達成度を審査・採点し、年間でもっとも高得点の区を表彰するという方式であった。区民の団結・競争心を煽り、運動の高揚をはかることにねらいがあったのである(資12上 四七)。その効果については、区民の競技・対抗戦としていちおうの成果はあげたであろうが、嶺北地方では機業が農村への進出を果たした時期であり、純粋な農業復興策としては現実にうけ入れられない部分があったのではないかと思われる。
 また三六年度には、指定町村のなかからさらに「特別指定町村」を選定し、より重点的な助成を行う制度があらたに導入された。救農土木事業に似た補助金で町村を釣る方式が採られたのである(資12上 五〇〜五三)。
 その後、三八年末にいたって、経済更生中央委員会が廃止され、農林省にこれを引き継ぐ農林計画委員会が新設されることになった。この時点で、運動の目標は不況脱出・時局匡救から戦争遂行のための農村協同・協力体制づくりへと置き換えられていった(資12上 五四)。



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