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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      経済更生指定町村
 一九三二年(昭和七)九月、農林省に経済更生部が新設され、中央に農林大臣を会長とする農村経済更生中央委員会、同じく道府県には経済更生課と知事を会長とする農村経済更生委員会を設置し、その系統的な指導・監督体制下に町村の経済更生計画を樹立させる組織づくりが進められた。内務・文部省が指揮する自力更生と並んで、経済更生が叫ばれることになったのである。当初政府は、毎年全国で一〇〇〇ずつの町村を「経済更生町村」に指定する計画であったが、四〇年度までの九年間に予定を上回る九一五三か町村、ほぼ八一%の町村がその指定をうけた。福井県では三九年度までに計一一四、全体の約六五%の町村が選ばれている(資12上 四一)。
 福井県は、三二年一一月に内務部長から町村長あてに、経済更生計画の樹立・実行のための町村委員会の設置に一か村平均八〇円、計画の樹立・実行を促進する産業団体の技術員の活動に平均一三〇円の助成金をもって、計画樹立の希望を募った(資12上 四二)。翌一二月末には県の農山漁村経済更生委員会を組織し、希望三〇余か村から予定の一五か村を選定した。しかし、指定一五か村の計画樹立と県委員会による認定作業は大幅に遅れ、これよりさきに翌三三年度の二〇か町村が指定されるありさまであった。そして三月末にいたって、ようやく指定一五か村の計画案が提出された。
 計画案の内容は、農村であれば米穀の増産、自給肥料の増製、副業の奨励と製品の出荷統制・販路開拓、漁村であれば船溜・築磯・潮止堤防の構築、海中投石、山村であれば林道開設、耕地の拡張、副業奨励など、農山漁村いずれも多角的な経営方策を打ち出していた。また、たとえば足羽郡上文殊村のように、経済更生日の設定、稲作反あたり三石五斗以上を目標にした競技表彰会の設置や、機業地であった吉田郡森田村のように、農村の電化・機械化の推進と余剰労力による出稼ぎ奨励など、各村独自の方策もみられた(『大阪朝日新聞』33・4・30、資12上 四五)。



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