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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      負債整理
 農村救済策としてもっとも切実な課題であった農家の負債整理は、一九三二年(昭和七)八月の第六三臨時議会で審議未了となったが、翌三三年三月の第六四議会でようやく「農村負債整理組合法」が成立し、負債整理事業が経済更生運動の一環として進められることになった。福井県では、同年五月に新設された経済更生課が中心となり、負債整理組合の設立が進められていった。
 当時、福井県の負債は、三二年六月末に、県の社会課が内務省に対して約三〇〇〇万円、一戸あたり平均二五〇円内外との報告を行っている(『大阪朝日新聞』32・6・28)。この調査報告がどこまで実態を反映したものかを確かめる術はないが、地主や商人から貸し付けられた肥料や農機具等に対する農産物の売り渡しなどを換算すると、農業恐慌下に弱小農家が背負った負債はさらに重かったものと考えられる。
 また、不況という点では、さきにも述べたように漁村や山村のうけた打撃が大きかった。漁村の窮状については、三二年八月に丹生郡へ講演に訪れた山崎延吉が、つぎのような見聞録を残している(『農政研究』11―10)。「(国見)村長より村の事情を聞いて全く同情した。近海漁業は全く望なくなり、最近一ケ月は漁家一軒に付て二、三円の収入しかないので、全く食ふ事が出来ぬ。積金は出し度も出せない、公売処分をしても買手がなく売れぬから一銭にもならぬ。悪ければ身体を質にとつて刑務所に容れてくれと云ふので、手がつかぬのことであった。」こうしたなか、県農林課の調査で、漁家の負債は一戸あたり平均五三〇円あまりと報告されたが、その返済のめどは容易に立つはずがなかった(『福井新聞』32・11・20)。
 一方、山村にあっても、農林課の調査で総額にして九四〇万円あまり、一戸あたり平均三〇〇円におよぶ負債を抱え、その半額が返済困難なものと報告されている。しかも、その九割あまりまでが民間の無尽や頼母子講、高利貸しなどから融通をうけた負債であった。林業家も林産物の暴落とは裏腹の高利率の借金に首が回らなくなっていたのである(『福井新聞』32・8・30)。
 この負債整理の取組みは、三三年三月に提出された三二年度の経済更生指定一五か村の計画案にも盛り込まれ、たとえ極貧者であっても月一〇銭の強制貯金を実施するというような方策が示されていた(『大阪朝日新聞』33・3・23)。指定一五か村の負債は、一戸あたり平均約四〇〇円といわれ、大野郡遅羽村では一か年一戸平均二七円をもって一〇年間で償還するという計画を立てていた(大阪朝日新聞』33・4・30)。
 農山漁村の経済更生は、現実的には多くの場合、負債整理を最大の目標に据えなければならず、個人による返済能力の限界から、区や村を挙げて組織的な返済を行うための手段として活用された。この点において、更生運動が自力更生から経済更生、すなわち挙村一致の共同更生の意味合いを強めていったのである。
 三三年八月には、負債整理組合法がいよいよ施行されることになり、県の経済更生課では農林省から配当された二〇か村に八〇の負債整理組合を設立する準備に取りかかった。組合は、生活共同体としての要件をもつという意味において、「部落」(区、大字)かそれに準ずる地域内に居住する者をもって組織するものであった。当初、県では三六年度末までに一二〇か町村四八〇組合を設立する予定を立てていた(『大阪朝日新聞』33・8・8)。



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