また、事業は町村の直営で行うことが原則とされ、「村長さんが請負師、区長さんが現場監督」といわれたように、町村を挙げて事業に取り組むことが理想とされた(『福井新聞』32・10・27)。だが、その裏には、町村民の就労賃金を切り下げ、正規の賃金との差額を生み出し、これを工事に必要な地元負担金に充当するというもくろみがあった。この点が、町村直営事業の真相として、工事の直接請負を求める土木業者の非難するところとなり、救農事業をめぐる紛争の種はいっそう大きくなっていった(『福井新聞』32・9・14)。翌三三年度の事業計画にあたり、県当局も「折角の匡救事業が、えんさの的となってゐる」と、ついに事の重大さを認めざるをえなかったのである(『福井新聞』33・2・20)。
もう一つの問題は、まったく乱脈な交通網が出来上がったことである。改修した町村道はたがいの連絡が整わないばかりか、事業が継続されなければ意味をなさない道路も少なくなかった。その点、事業が農村救済のための資金散布を最大の眼目としていたことが、はっきりと表われたのである。また、三二年度の場合は、工事の着手が遅れ、降雪期に入ってあわてて起工する町村も少なくなかった。県は補助の取消しを盾に、町村への督促を重ね、町村も全区民の出動を呼びかけなければならなかった。しかし、概して工事は遅々として進まず、年内完了の予定を延期して翌年の融雪期にようやく竣工したものが多かった。交通網の連絡を心配する以前に、工事の年度内完了さえ危ぶまれる状況にあったのである(『福井新聞』33・2・20)。 |