目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      工事の就労者
 工事開始の直前、一九三二年(昭和七)九月二二日の『福井新聞』は、「救農工事施行を前に農民は無関心、バラ撒かれる二百万円を拾ふとせない」との見出しで、就労者不足のために「結局土工労働者を雇ひ入れねば、工事を進めることができぬやうになるのではないか」という、事業関係者の懸念を大きく取り上げた。工事は、行政手続きの遅れや工期が農繁期に重なったこと、降雪による障害などを原因に遅延したが、結局は地元民を優先的に使用すると規定した就労人夫の不足に悩まされたのである。とくに市街地に隣接した町村では人気が上がらず、就労を希望する者が少なかったようだ。大野郡下庄村では、着工にあたって「他町村ヨリ雇入スルカ、又ハ鮮人(朝鮮人)人夫ヲ雇入スルカノ手筈ニ付、晴天ノ時ハ貴区コゾリテ御出場御働キノ程希フ」との依頼文を各区に出し、区民の就労を呼びかけている(旧下庄村役場文書)。はじめから町村民以外の下請労働者をあてにしなければ、予定期間に完了する見込みが立たなかったのであろう。
 三二年度は、救農土木事業と平行して、三〇、三一年度と実施されてきた失業救済土木事業を継承した産業開発土木事業が行われ、県営事業として県道の改良工事が進められていた(資12上 三六〜三八)。県は、各々の趣旨にしたがい救農事業には地元民、産業開発事業には失業者を使用する方針を示していたが、現実には救農事業に地元民以外の労働者が多く使われた。三三年に入って工事完了が急がれると、ますます事態の進行が予想され、町村に対して就労者の使用に関する警告を発した(『大阪朝日新聞』33・1・22)。
写真10 産業開発土木事業により改良された県道(三方郡)

写真10 産業開発土木事業により改良された県道(三方郡)

 この時期、県内には約四〇〇〇人の朝鮮人が居住していた。産業開発を中心とする各種の土木事業に従事する者が多く、さきの下庄村でもみたとおり、救農事業に雇われる者も少なくなかったであろう。当時の新聞紙面には、こうした朝鮮人土工の労働条件をめぐる争議の記事が散見される。県や町村が、工費を浮かすために、地元民にはうけ入れられない劣悪な労働条件を強いていたことが想像される。三三年一月には、吉田郡上志比村が請負った産業開発事業の道路工事で、労働者の過半を占める朝鮮人が賃金値上げを訴えて争議をおこした。その結果、賃金が日給制からトロッコ運搬回数による支払い制に改められたが、彼らの要求は十分に満たされなかった。挙げ句のはてには、工事自体が一時中止されることになったのである(『大阪朝日新聞』33・1・22)。
 時局匡救事業は、軍事費の増大にともない、三四年度をもって打ち切られることになった。しかも、最終年度の福井県に対する配当額は、大削減がはかられ、前年度に比べて三割から五割程度にすぎないものであった。その理由は、当時中央で「福井県は人絹成金」とのうわさが流れているからだと伝えられた(『大阪朝日新聞』34・1・23)。事実、三二年から三四年にかけての人絹機業の発達はめざましく、機業地を中心に救農土木事業の実施を軽視するむきがあったことは、さきに述べたとおりである。しかし、機業好況の恩恵をうけることの少ない山村や漁村にあっては、やや事情が異なっていた。山村の場合でみると、初年度で一戸平均一六円六二銭の労賃収入に加え、林道の開設によって土地の騰貴や林産物の運賃低減などが達成された。だが、当時一戸平均二〇〇〜三〇〇余円といわれた山村民の負債額に照らし合わせてみれば、三か年ばかりの事業ではとても救われるものではなかった(『福井新聞』33・4・26〜28)。



目次へ  前ページへ  次ページへ