目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      救農土木事業
 総額六〇億円ともいわれた農家負債の「三年間モラトリアム」(支払猶予)の要求に代表される、農村救済の請願運動が高まるなか、一九三二年(昭和七)八月、政府は「救農議会」「時局匡救議会」と呼ばれた第六三臨時議会を開き、農村救済に主眼をおいた時局匡救事業の実施をつげた。その内容は、内務省所管の農村振興土木事業と農林省所管の農業土木事業を主とする「農村救済土木事業」が中心的な位置を占め、三か年継続の大規模な公共土木工事の施行により、貧窮する農民に就労すなわち現金収入の機会をあたえて農村経済の活性化をはかるという趣旨であった。事業は国費約六億円、地方費約二億円の計八億円の予算に、預金部資金約八億円の融資を加え、総計一六億円におよぶ一大事業として計画されたのであった。
 しかし、「農産物価格の引上」「農家負担の軽減」「農家負債の整理」の政策実施を求めていた農会側の主張からすれば、この事業はあくまで問題の核心をそらした暫定処置にすぎなかった。県農会の外郭団体であった県農政協会は、第六三臨時議会の開催を前にして、新聞紙面に報道される政府の救済案を「農村救済は一も土木、二にも土木」の「土木万能主義」と批判し、「名は農村救済と称せらるゝも、実はこれに伴はざる結果を来さんかを恐るゝものに候」と、農村救済のための一大土木事業の実施には、早くから懸念の態度を示していた(『福井県農会報』32・8)。吉田郡の町村農会長会議などは、農産物の下落が問題であって農家が失業しているわけでない、と農村救済土木事業の実施に絶対反対を決議した(『福井新聞』32・8・15)。事実この時期、福井県の嶺北地方では人絹織物業が急速な発展をみせ、機業工場における農村労働力の需要はこれまで以上に高まりつつあった。そのため、吉田郡のような機業地ではとくに顕著であったが、農民がすすんで土木事業に就労するような状況にはなかったのである(第一章第二節三)。
 政府の方針にもとづき、福井県では八月下旬からほぼ一か月間に、道路・河川・港湾・耕地整理などを主とする総額で約二〇〇万円におよぶ事業の内容がまとめられた。当時二〇〇万円といえば、県歳出の三分の一にも達するほどの額であり、その約九割が市町村・各種団体の事業費に配当されるものであった。市町村の事業については、一か所の工事費を一〇〇〇円以上五〇〇〇円以下に限定して、費用の四分の三は国庫補助、残り四分の一の地元負担額は県が低利資金を転貸し、その利子を三か年間国庫から補給することが通達された(資12上 三九)。
 県は、九月初旬までのわずか一〇日間ほどで提出させた各町村の希望をもとに、事業費の査定を進め、その過程で「一町村一工事」を目標に打ち立てた。そして、就労機会の均等を最優先させた「公平な分配」という政府の方針にしたがい、町村の戸数に準じた事業費の配分を原則とした(『福井新聞』32・9・17)。そもそも工事費の査定は、その内容や必要度にもとづいて検討したものではなかったのである。
 一方、町村の側にあっても、まさに棚牡丹式の補助金を前にして、一夜づくりの申請でも行わないわけにはいかなかった。十分な検討がなされていない「行きあたりばつたり主義」の希望申請と非難されても、仕方のない側面があった(『福井新聞』32・9・14)。こうした経緯が、その後の事業運営に大きな問題を残すことになったのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ