小山村長の吉田徳五郎は、小山尋常高等小学校長の中村飛知を片腕に、村民とくに青少年の教育にも奮闘した。「読み書きは出来ても、働くすべを教へてくれない学校は何にもならぬ」をモットーに、汗を愛して喜び働く「愛汗喜働」の精神を養う「農民魂打込み」教育を提唱・実践したのである。
「垢抜け風采の教員には、可愛い児童を託せない」と、男子教員の長髪や女子教員の化粧を禁止するなど、教職員の風紀にきわめて厳格な態度を示したが、その主張は、農村の疲弊・困窮をもたらした原因の一つが学校教育にあり、小学校で農村社会の実状に即した教育が行われていないということであった。一九三五年(昭和一〇)に県知事に提出した「農山村学校教員頭脳改造」に関する陳情書では、農山村には都市と異なる教育・教科書が必要で、まずは教育内容の地方化をはかるために、教員の頭脳を改造することが必要であると説いている。農山村の教育者は「教育の美名にかくれ、手緩る教授にハイカラの身飾に流れ、地方青年の堕落の先駆者」であると、現状に対する強い不満を示したのである。
小山村の農民魂打込み教育は、軍人と銃器の関係にならって農民と農器具の関係を重要視し、鍬を特殊な学用品に位置づけた。「鍬の光」を「農民魂の光」であるとし、鍬を用いた農民教練や農民体操、農民ダンスを考案・普及させた。農民教練は鍬を銃剣に見立てた執鍬行軍や分列式、閲兵式などを行うもので、農民体操・農民ダンスは鍬を手にして農作業のようすを踊りに表現したものであった。また小学校では、「剛健質実」を児童訓に掲げ、修身と農業を中心科目に据えて、精神の鍛錬と実習・体験による勤労教育を重視した。学校の登下校にあっても、各大字の尋常五年以上をもって中隊、同一通学路をかよう中隊をもって大隊を編成し、鍬を担った行軍登下校、その途中での道路の修繕、神社・仏閣・忠魂碑前での敬礼を義務づけた。子どもたちによる農兵さながらの訓練が日常的に行われたのである。 |