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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    五 恐慌期の労働・農民運動
      全協の非合法活動
 一九二九年(昭和四)三月、全国農民組合第二回大会に出席した全農県連の常任書記であった木下利男は、日本共産党員の杉本文雄の勧誘により党員となったが、翌月の四・一六事件で逮捕された。翌三〇年一月、福井地方裁判所で木下に懲役四年の判決が出され、木下は上告していたが、同年六月には雑誌『戦旗』福井支局の名のもとに潜行運動を開始し、ナップ系とされた井上健次郎、乾補、上中信夫、鳥羽善平の四名と全農県連書記であった土本勇が検挙された。そのうち、井上、乾と土本は、「共産党目的遂行ノ為ニスル所為アリタリ」として起訴された。福井リーム会社争議や小作争議を指導して階級闘争の激化につとめたとされたのである(司法省刑事局思想部『社会運動情勢』、『社会運動通信』31・6・23、『福井新聞』30・1・30)。
 その後も、非合法下に二八年末に結成されていた日本労働組合全国協議会(全協)の地方組織としての活動が特高のきびしい監視・弾圧下に続けられた。前述の岡本村製紙工場争議の調停を、労働同志会会長の斎木が特高課長に白紙委任したことへの抗議のビラが、全協支部の名で福井市内で撒かれたことに端を発し、三二年一〇月と一二月に組織壊滅をはかる検挙がなされた(『大阪朝日新聞』32・10・5、12・4、資12上 一〇)。
 しかし、翌三三年に入るとふたたび組織再建の動きがおこり、二月には白雲洞・鄭泰述らを中心に日本土建労働組合福井地区が、三月には佐々木悠らによる日本繊維労働組合福井支部と内田穣吉らによる日本通信労働組合粟田部分会が結成された。さらに、四月には鄭や佐々木の提唱により全協福井支部協議会の結成をみ、石川地区協議会との提携がはかられた。ただ、こうした全協の活動はスパイにより特高に報告されていたようであり(『福井県労働運動史』1)、一〇月に陸軍特別大演習をひかえた県警察部は、九月二〇日、関係者五八名の一斉検挙を行い、うち一八名を起訴した(資12上 一〇、一一)。
 こうした全協の再建活動とそれに対する警察の監視・検挙は、翌三四、三五年と続いたが、治安維持法の拡大解釈でより弾圧は強化され、三六年一〇月の韓昌洙が福井駅で逮捕されたのを最後にほぼ壊滅させられた(資12上 一二、『大阪朝日新聞』34・12・15、36・11・1、37・3・11)。
 全協は、綱領に戦争反対・天皇制打倒とともに朝鮮・台湾の完全独立を掲げており、三三年に全国で検挙された一六九六名中九二六名が朝鮮人であった(警保局「日本労働組合全国協議会一斉検挙の概要」)。福井県においても三三年九月の一斉検挙者のうち三〇数名が朝鮮人であり、彼らが全協福井支部の主要構成メンバーであった。県下在住の朝鮮人は二四年(大正一三)の二一二人が二八年には一一〇〇人に、さらに三三年には五〇〇〇人をこえるまでに急増していた。彼らの多くは日本人労働者以下の低賃金と劣悪な労働条件のもとで土木工事や鉱山労働に従事しており、県下各地で労働争議をおこすとともに、福井県の全協運動をきびしい弾圧下に最後まで支えようとしたのであった(『労働時報』24・9、『福井新聞』28・4・22、33・6・25)。



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