目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    五 恐慌期の労働・農民運動
      恐慌と小作争議
 一九二九年(昭和四)の四・一六事件で全農県連合会の組織は、大きな打撃をうけた。弾圧により県連の組織力が弱まったことに加えて、官憲による共産党攻撃が、組合員をして全農から脱退させるとともに、小作争議の件数をも少なくさせていた(通5 第四章第二節三)。さらに三〇年からの農業恐慌が、「仕事が少なく失業に脅えて小作争議は根絶」と新聞が報じていたような状況を生み出していた(『福井新聞』31・2・1)。
 新聞記者にあたかも「根絶」と映ったのは、三〇、三一両年の一月中に福井地方裁判所に持ち込まれる小作争議調停事件が一件もなかったからであるが、実際の争議件数も二七年の三九件が、二九年一七件、三〇年一二件、三一年一〇件、三二年一五件と、ほぼ三分の一にまで減少していた。さらに恐慌の影響は、たんに争議件数を減少させたという量的な面だけではなく、小作争議そのものの質的転換をもたらしていた。
 三四年一月の第八回地方小作官会議への福井県の「答申要録」は、つぎのように答えていた。現在ノ農村不況ガ小作事情ニ及ホシ発生シタル小作争議ハ、小作地返還及小作権ニ関スル事件増加ノ傾向ニシテ、且小範囲ノ個人的関係ノ争議多クナリシハ注目スベキ点トス小作地取上げをめぐる耕作権が争議の主要課題となり、かつその争議は小規模なものや個人的関係のものが多くなっていたのである(図7)。恐慌は、米価下落や兼業機会の減少により小作人に打撃をあたえただけでなく、地主経営をも苦境に陥れた。そのため、小作人は連年のように小作料の減額を求め、一方、地主は土地売却や小作地の自作によって経営の危機を切り抜けようとしたため、件数は少なくても、争議が引き起こされた場合は、一九二〇年代と比較し、より深刻なものが含まれていた。
図7 小作争議の規模(1921〜41年)

図7 小作争議の規模(1921〜41年)

 たとえば、福井市近郊の足羽郡和田村下北野では、三〇年に小作人が小作料の二割五分の減免を要求したことに端を発して、地主は耕地整理により埋立てた土地を、住宅敷地や足羽郡馬匹畜産組合と連携して地方競馬場として利用しようとしたところから小作争議がおこった。米価下落や争議発生により地主は従来の地主経営を放棄しようとしていたのである。これに対して、小作人は福井県労働同志会の応援をえて調停に持ち込み、かろうじて耕地整理前の小作地の耕作権は従来どおり認められた(資12上 三一〜三四)。このように恐慌期の県下の小作争議は、発生原因が小作料一時減免、耕地整理、奨励米などにあっても、争議経過のなかでは耕作権が争点となり、また地主側が攻勢的で小作人側が防衛的なものが多くなってきていた。
 一九一〇年代後半から二〇年代にかけては、実納小作料の減少に加え反収増があり、福井県では実質的な小作料率はかなりの減少をみていた。ところが三五年の農林省『小作事情調査』によれば、福井県の一毛作田(普通)の実納小作料は、二一年(大正一〇)と比べ三五年には一・〇四五石から〇・九七石に減じていたものの、平均収穫高も普通田で反収二・一九石が二・〇四石に減少しており、小作料は減少しても小作料率は微増していた。昭和恐慌により米価が惨落するなかでのこのような小作料率の微増は、小作人により大きな打撃をあたえ、争議深刻化の根本的原因となっていたのである(通5、『昭和十三年三月小作事情調査』)。
 ただ、福井県においては三〇年代なかばに争議件数と規模の双方の増加傾向をみる。たとえば丹生郡朝日村佐々生の米穀検査をめぐる争議は、「経済上俄カニ困窮ヲ感ズルコトナキ」小作人側の攻勢を伝えており、その理由として製縄・製炭などの副業とともに子女が女工として働く機業場からの収入が生活を支えているからであるとしている。このように三四年ごろから日中戦争開始までの小作争議は、恐慌期とは様相を異にしており、人絹織物業が隆盛をほこっていた本県では各地で小作人側の攻勢がみられた(資12上 三五)。



目次へ  前ページへ  次ページへ