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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    五 恐慌期の労働・農民運動
      メーデーの実施
 労働同志会の第六回大会ではメーデー開催が決議されていたが、その翌一九三一年(昭和六)五月一日、快晴下の午前一〇時、福井・芦原・金津・森田・河和田・口名田などの支部員を中心に、おりから争議を繋争中の辻久機業場の女工など約三〇〇名が参加した福井県における記念すべき第一回のメーデーが開催された。スローガン旗に「労働者に食と仕事を与へろ」「不当首切絶対反対」などとともに「土地取上絶対反対」が掲げられていたことからもうかがえるように、このメーデーには小作人も参加していた。このころより同志会は、福井市周辺を中心に足羽川堤外地耕作権問題や和田村下北野の競馬場設置などをめぐる小作争議にも積極的支援を行っていた。創立当初より労働部と農民部の二部制をとってきた労働同志会においても、労農の提携が実践されはじめたのである(『社会運動通信』31・5・8、資12上 一三、三一〜三四、武田哲夫『歩み続けて五十年』、『福井勤労新聞』31・9・15)。
写真5 福井県の第1回メーデー

写真5 福井県の第1回メーデー

 当日斎木同志会会長は、今日のメーデーは大成功であり示威行進は「地主資本家達の心胆を寒からし」めたとし、来年はより多数の参加者があるだろうと語っていた。しかし、翌三二年のメーデーは、小浜町での若狭自由労働組合員約二〇〇名による示威行進は官憲により解散させられた。また、福井市での同志会主催によるメーデーも警察によるきびしい取締りで計画の変更を余儀なくされ、参加者も予想を大きく下回るわずか七〇名であった。翌日の新聞は物々しい取締りを行う警官とそれを遠巻きに見守る観衆の数のほうがはるかに多かったと報じていた。そして翌年以降、県下ではメーデーを開催することができず、戦前期のメーデーはわずか二回でもって幕を閉じざるをえなかった(『特高月報』32・5、資12上 一五、『大阪朝日新聞』32・5・1)。



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