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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    二 「非常時」体制への移行
      献金熱と若越愛国号
 満州事変は、関東軍の主任参謀であった石原完爾らの、戦争初期における軍事的成功は「民心ヲ沸騰団結セシム」との確信によって引き起こされた。実際に戦争が勃発すると、県民は新聞やこの時期聴取者が激増するラジオによる戦勝報道に熱狂し、まさに彼の予言どおり戦争支持熱を異常に高揚させることになる(粟屋憲太郎『十五年戦争期の政治と社会』、『福井新聞』32・2・22)。
 まずそれは、愛国婦人会や在郷軍人会など団体を通じた戦地への慰問袋送出や軍費への献金となって現われた。そして、一九三二年(昭和七)一月末に上海事変がおこると、県は「福井県軍事後援各種団体連合会」を創設し、市町村にも軍事後援会が設立され、慰問金品の系統的募集・送付と留守家族や遺家族への自発的「慰藉救護」が決められた(資12上 一二八、一二九)。
 また、軍への献金は、さまざまな団体が行おうとしたが、二月中旬には県と鯖江連隊区司令部がイニシアティヴをとる偵察機「若越愛国号」献納運動に収斂されることになった。その運動方法は、知事などの発起人が市町村長に献金を依頼し、市町村長が在郷軍人会、青年団、婦人会などの奉仕活動によって集められた献金を鯖江連隊区司令部へ送付するというものであった。「若越愛国号」を陸軍に献納するため、その費用八万円を三二年三月一日より一五日の半月間に集めることが当初の計画であった。
写真2 愛国14若越号

写真2 愛国14若越号

 しかし、たしかに満州事変・上海事変の戦勝報道やその映画会などに熱狂した県民ではあったが、昭和恐慌による農山漁村の打撃が深刻化しているなかでは、県全体としては献金の動きはにぶかった。実質的には市町村の行政機構を利用しての、なかば強制的な献金であり、「燃ゆる祖国愛、若越号に献金殺到」などと『福井新聞』(32・3・13)や全国紙の地方版が連日のように献金美談を掲載し、またポスターや宣伝歌製作などさまざまな宣伝方法がとられたにもかかわらず、当初の募集期限をすぎた一六日になっても三万円に達していなかった。その後、福井市内の大口献金や町村からの献金がふえ、ようやく月末に当初目標の八万円をこえたが、その時にはもう命名式の期日(四月二九日)が決められていた。
 この「若越号」は愛国第一四号機と称されたように、この飛行機献納運動は全国的なものであり、軍部の愛国心の利用を県民は見抜いていたとも思われる。四月二日、鯖江連隊区司令部は県学務部に「若越号は単に鯖江連隊のみの事業」と受け取られており、とくに嶺南地方が低調であるのは県の趣旨徹底がなされていないからだと抗議していた。こうしたことのなかにも、半強制的な献金に対する県民の冷めた対応がうかがえる。それでも最終的に献金額は九万二〇〇〇円に達し、残余の資金で高射砲「福井号」が献納された。そしてこうした献納運動は、日中戦争・第二次世界大戦へと進むにつれて強制的献金の色彩を強めつつ、より狭い地域での献金による「丹生号」、「小浜号」のような飛行機献納へと進展していく(『福井新聞』32・3・24、4・3)。



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