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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    二 「非常時」体制への移行
      国防思想普及運動
 軍部による在郷軍人会を梃子にした国防思想普及運動は、昭和期に入ると徐々に強まっていたが、一九三〇年(昭和五)が一つの画期であった。この年は日露戦争二五周年記念の年にあたり、在郷軍人会が主催する国防思想普及の行事が各地で行われた。今立郡粟田部町では、在郷軍人分会が主催して三月には鯖江連隊区司令部松岡中佐による「日露戦役満二十五周年記念軍事講演会」があり、五月二七日の海軍記念日には「軍事思想普及蓄音機演奏会」、八月には「国防軍事普及活動写真大会」が開催された。そして同町の事務報告書にも「各種団体ノ部」がこの年より設けられ、在郷軍人分会、青年団などの活動が克明に記されるようになる。
 こうした動きは、表5からもうかがわれるが、三一年になるとより活発となり、さらに福井県では、八月に高木義人大佐が奉天(独立守備歩兵第三大隊長)より鯖江連隊区司令官に着任したことにより、在郷軍人会の動きは政治運動化の傾向をみせはじめた。高木司令官は、着任早々の八月二六日に管内各郡在郷軍人連合分会長会議を招集し、軍縮反対、政党政治否定を強く訴えた。これをうけて三〇日、丹生郡在郷軍人連合分会が、国防研究会を開き、「軍備を一時的の事象に因り、随時に左右するが如きは有り得べからざることゝす」という宣言や決議を可決することになる(『精勇』31・9、『福井新聞』31・8・18、30)。
 在郷軍人会のこうした動きに対しては「政争の渦中に在郷軍人を追ひ込む」という批判もあったが、満州事変の勃発はその批判を封じ込め、県下各地の郡および町村の在郷軍人分会は、連隊区司令部の指示をうけ、活発な国防思想普及運動を展開していった。
 この運動の本質は、軍部のプロパガンダを在郷軍人会などを通じて国民に強制するところにあった。それは、高木鯖江連隊区司令官の講演内容が、ほぼそのまま同連隊区管下の在郷軍人分会や連合分会の宣言・決議となり、内容はもちろん字句までが同一であったところにも表われていた。また、それらの宣言や決議・建議書は、「帝国ノ死活」とか「国際平和ノ表面的辞令ニ捉ハレ」など実態のあいまいな空虚な言葉の羅列の後に、「国際聯盟、不戦条約ヲ脱退スルモ敢テ辞スル所ニ非ズ」というような恐喝的言辞で締めくくられていた(資12上 一二四〜一二六)。


表5 粟田部町在郷軍人分会発来翰数(1930〜42年)

表5 粟田部町在郷軍人分会発来翰数(1930〜42年)
 したがって、国防思想普及運動は、県民にとっては一方的に献金や奉仕を要求されるだけで自発性発揮の余地がなかったため、事変が一段落するとどうしても低調になりがちであった。そのため、軍部は、満州事変や上海事変の周年記念日を設け、国威宣揚式や国防思想普及運動実施期間の設定などを行うことにより、たえず国防世論を喚起する必要があった(資12上 一三一、一三二)。
 ただ、中央政府における軍部の発言力が強くなると、こうした運動のもつ規制力は徐々に強まっていた。たとえば、足羽郡在郷軍人連合分会は、三二年二月の総選挙時に「兄弟檣にせめぐの時にあらず」という檄文を郡内に配布し、無投票選挙の実行を迫っていた。事実、こうした圧力も一因となって、福井県の総選挙は山口県とともに全国的にもまれな無投票となった。また、五・一五事件ののち首相となった斎藤実は、翌六月の第六二回議会の施政方針演説で「現下の時局は世人これを称するに『非常時』の形容詞をもつてしまするほど重大であります」と述べ、「非常時の非常内閣」と呼ばれ「非常時」の言葉が流布する契機となった(古屋哲夫「日本ファシズム論」『岩波講座日本歴史』20)。
 こうしたなか、翌三三年二月七日には、金沢第九師団の強い要請をうけて、福井県国防協会が発会式をあげた。同会は事務所を福井連隊区司令部におき、知事を会長、福井・敦賀の両連隊区司令官を副会長にし、協議員には貴衆両院議員、県会議長、県各部長、福井市長、新聞社や農会・愛国婦人会などの各団体の代表などのほかに、各郡町村会長と同在郷軍人連合分会長が加わっていた。この会の設立によって、連隊区司令部(軍部)ははじめて直接的に行政ルートによって県下一円に国防思想の普及徹底をはかる手段を獲得したのであった。「非常時」の叫びは、県民の自発的支持をいまだ得てはいなかったが、地方においても体制化していく第一歩となったのであり、同年秋の陸軍大演習と天皇の行幸はさらにそれを進展させる力となった(資12上 一三三、一三四、『大阪朝日新聞』33・1・13)。
 なお、三三年秋ごろから、まず軍隊の出入港敦賀を中心として嶺南地方で国防婦人会が結成されはじめた。同会の結成は福井市などで愛国婦人会との摩擦があったが、連隊区の強力な指導があり、三五年一一月の嶺北地方の国防婦人会福井支部の発会時には、一一八分会、六万三〇〇〇人の会員をようするまでに成長していた。軍部は、国防思想普及という大義名分のもと、貧富や身分を消しさる一律白いカッポウ着姿で全階層の婦人を街頭に引き出すことにも成功していた(藤井忠俊『国防婦人会』、『福井新聞』35・11・19)。



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