満州事変の勃発は、不況に苦しみ政党政治の不振・腐敗にいらだっていた国民を、いっきょに戦争への興奮の渦に巻き込んだ。そして、この興奮と熱気を高めるのに大きな力となったのが新聞やラジオなどのマスコミであった。
福井県では一九三一年(昭和六)九月二二日が県会議員選挙の投票日であり、新聞は選挙中心の記事を掲載していた。それが、一八日の柳条湖事件勃発により、『福井新聞』でも一九日に号外が出されて以後、紙面の大半が戦争報道記事で占められるようになった。二二、二三日の同紙夕刊の一面には「日本の侵略に名を藉り国内統一を図る肚」、「蒋介石の豪語、あくまで日本を誣ひた、不遜極まる態度」などの見出しがおどっていた。それでも二〇日の社説は、事件の勃発が各方面に大きな衝撃をあたえたのは、軍部が国防思想普及をとなえ、満蒙の特殊権益擁護を叫んでいたからであり、両軍の衝突は「それ程驚愕すべき大事件ではなく、或ひは地方的の小問題にすぎぬかもしれない」と述べ、陸軍の謀略事件であることを見抜いているかのようであった。また、二三日の社説でも「大局をあやまらざるやう偏に理性の判断にまつべきである」とも述べ、まだ冷静な対応がみられた。
こうしたなか、海の向こうのはるか彼方の事件を、県民に疑似体験させたのが中央紙による写真展や映画会であった。朝日新聞福井支局では、事件のわずか五日後の二三日には、福井市宝永・旭・足羽の三小学校で本社写真班撮影「満州事変映画」を公開し、二四日から三日間はだるま屋百貨店で写真展を開いた。『大阪朝日新聞』福井版(31・9・25)は、その状況を「本社飛行機の決死的空輸による各戦線におけるわが軍の奮闘ぶりに熱心な観覧者をして現地にあるが如き感動を与へた」と報じていた。
そして、翌三二年一月末におこった上海事変には、鯖江の第三六連隊と敦賀の第一九連隊が出動したこともあり、二月以降、この映画会は郡部の各村むらでも広く上映されるようになった。さらに、同年六月からは同社の時局ニュースが「発声映画」(トーキー)になったことにより、その上映はいずこも立錐の余地がないほどの入場者があり、いっそうの人気を獲得した。上映広告によれば、「輝く皇軍」「海陸共同上海総攻撃」「海の護り」など一〇数本が、「大阪朝日新聞購読者優待映画」として上映された。すなわち、この六月よりは一般公開ではなく、同紙販売店が発行する招待券持参者のみの上映会となったのであり、戦争報道が部数獲得の一手段ともなっていた。
また、上海事変では福井県出身の将兵が一三九名戦死し、負傷者も多かったため、その家族からの取材記事を『大阪朝日新聞』福井版と『福井新聞』はきそって掲載している。両紙とも戦死を「国家に捧げた身だ」、「邦家のために美しく散れ」などと家族が語るという美談に仕立てていた。そのなかで、『福井新聞』が「手足を失つても戻つて欲しい、一人息子を頼よる藤田一等兵の親」という記事も掲載し、また「お父さん語る」や「実父語る」が多かったのに対して、『大阪朝日新聞』の福井版は、「田中伍長厳父談」というように一例をのぞきすべて父親を「厳父」に仕立てあげ、美談をより徹底させていた。 |