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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    一 政党政治下の県政
      政党政治下の地方官人事
 一九二七年(昭和二)四月に成立した少数与党の田中政友会内閣は、翌五月に知事・内務部長・警察部長などの大異動を行った。党略による知事の異動は、すでに日露戦後からの桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担当した桂園時代からはじまっており、とくに政友会は党勢の拡大と選挙対策の一つとしてこれを行ってきたとされる。しかし、この党略人事が大規模かつ露骨になってきたのは、田中内閣成立以降の一九二〇年代後半からの二大政党制の時代になってからであった(『内務省史』1)。
 二七年五月の知事の異動は一道三四府県にわたり、休職も一四名にのぼり、また、内務・警察部長も同規模の異動であった。異動に不満の島根・石川両県知事が辞表を提出したが、憲政会は「政変毎に地方長官の更迭を行ふがごときは、事務官と政務官の区別を無視するものにして、憲政の本義に反する」と声明書を出していた(『福井新聞』27・5・18)。ただ、その憲政会の後身である民政党も「最も政治的色彩の濃厚なる不良分子、いはゆる札付知事」の綱紀粛正の名のもとに、浜口雄幸民政党内閣が二九年七月に成立した一年後にはほぼ同様の地方官の異動を行い、またその反作用が、三一年一二月の犬養毅政友会内閣に引き継がれていく。
 図2は、この政党内閣時代の福井県の知事、内務・警察両部長の人事異動状況を示したものである。二七年五月の大異動では、中立的とみなされていた市村知事は留任であったが、これ以降政友会系の知事と目されるようになる。翌二八年五月に市村の後をうけた小浜浄鉱知事は、当初より政友会系とされ、三〇年八月、浜口民政党内閣の異動で、「全く寝耳に水だ」、「浮草稼業の常としてやむを得ない」、「本県の仕事としては予算緊縮に会つたのでこれといふ事業も出来ず」の言葉を残して休職となる(『福井新聞』30・8・27)。その後任が、のちに民政党の衆議院議員になる斎藤直橘であるが、その彼も犬養政友会内閣が成立した三一年一二月に休職となり、その後には休職中であった小浜がふたたび知事に任命される。
図2 知事・内務部長・警察部長の任免(1925〜35年)

図2 知事・内務部長・警察部長の任免(1925〜35年)

 このように政党内閣時代の知事は、まさに「浮草稼業」であり、政権の交代とともに任免が行われ、それは内務・警察部長から各警察署長にまで及び、行政の混乱を生むという批判を浴びていた。そのため、三二年の五・一五事件後に成立した斎藤実「挙国一致」内閣は、同年六月までに三府二五県の知事の異動を行い、政友会系とみられた知事を休職等にし、さらに九月には文官分限令を改正、文官分限委員会を設けて、官吏の身分保障を強化するとともに、人事行政の独立をうたった。
 しかし、この文官分限令の改正は、人事行政の独立にとどまらず、満州事変以降徐々に台頭してきていたいわゆる「新官僚」が、政治的に進出していくうえでの制度的保障をあたえ、のちには政党政治の否定と戦争への国民動員体制の構築を軍部とともにもくろむ「新官僚」「革新官僚」の政治支配へも道を開くことになった。



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