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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    一 政党政治下の県政
      県会の動向
 一九二七年(昭和二)、九月に二大政党下の普通選挙により行われた県会議員選挙では地方議会の活性化が期待されていた。同年一一月一九日に招集された通常県会では、冒頭池田七郎兵衛議長は、「吾々ハ第一次ノ普選議員ト致シマシテ、県民ノ福利ヲ増進スヘク努力致シタイ考ヘデアリマス」と述べたのに対し、『大阪朝日新聞』は、「六十万県民とはいはなかつた」と論評した(『昭和二年通常福井県会会議録』、『大阪朝日新聞』27・11・20)。そこには、県会を前にして議席の三分の二を占める政友会議員が、旧来と同じく議長問題で池田派と熊谷(三太郎)派に分かれて激しく争い、結果として熊谷をのぞく多くが池田の軍門に下り、昭和倶楽部を結成していたことへの批判が込められていた。この二七年から任期いっぱいの三〇年までは、民政党までを巻き込んだ争いを続けながらも、昭和倶楽部を背景にした池田が四年間議長をつとめ、県会をとりしきることになる。
 その内実は、副議長(四年間で三人交代)以下参事会員などの役職を巧妙にふりわけるとともに、予算審議をたてに知事以下の理事者から予算の配分に議員の利害に応じたアクセントをつけてもらうことであった。また、理事者側も政権交代で予算編成方針が大きく変わるなか、スムーズな審議のために池田議長との親密な関係を望んだのである。
 二七年の議会多数派の昭和倶楽部の結成は、市村知事が政友会内閣の方針にしたがい、二八年度予算を前年度比一二三万円増の六三九万六六五〇円と、長引く不況のなか久しぶりの大型予算を組んだことにも一因があった。とくに、表3にみるような二八年度よりの総工費六八四万円の産業道路改修計画(四か年継続事業)は、明治年間の「権衡工事」の再来とまでいわれた。起債三三八万円の償還が三三年度以降一四か年計画という先送り方針であったこともあり、議員たちは知事の与党化という方向を選んだ。知事もこれに答えるに、先例のない議会開会前の一一月一五日に新年度予算を議員全員に内示したのである。
表3 産業道路4か年改修計画

表3 産業道路4か年改修計画
 この大産業道路計画は、県下約三〇〇キロメートルにわたって、自動車が自由に通れる道路に改良するというものであった。四か年でこの大工事を行うことに対して、県下の町村長の一部からは、その計画の杜撰さを指摘する声があがっていたが、県会では、わずかに民政党の小川議員のみが、具体的路線も公表せずに県民に多大の負担を強いるこの工事の拙速さを批判しただけで、ほとんど討議らしい討議もせずに可決した。六八〇万円にものぼる道路工事の路線を、秘密会である参事会にのみはかって進めていくということは、まさに理事者側と議員自身による、普選後最初の「六十万県民」の代表からなる議会の機能を無視した決議であった(『昭和二年通常福井県会会議録』、資11 一―九四)。
 すなわち議員にとっては、たとえば二八年通常県会に、県道編入請願書が一〇〇線をこえて提出されるというように、「六十万県民」の総体よりも、選出区の支持者の意向を重視せざるをえなかった。同通常県会中に、熊谷派の巻き返しで昭和倶楽部が分裂した時、郡部の民政党議員が同倶楽部に参加して、池田派の優勢が守られた。この時、南条郡選出の民政党議員桂屋は、二大政党の対立は「国家として国政を議する上の見解の相違で、それを其まゝ県政の上に適用することは無理である」として、さらに「私を県会に送り出した南条郡の選挙人の意志を考へなければならぬ、……郡一致の立場に立たねばならぬ」と述べていた(『福井評論』29・1)。
 こうして普選による政党政治下の新しい県会のあり方は模索されず、有権者拡大による地域利害のいっそうの増幅が、政友会の池田派対熊谷派の対立に、民政党の市部派と郡部派の争いを巻き込んだ多数派工作を激化させていた。それはまた、旧来以上に水面下の取引を拡大させ、県会をますます形骸化させていった。二九年の府県制の改正で、議員の発議権や条例制定権が認められ地方自治権の拡充がなされたが、それが福井県会では池田議長の巧妙な手法による役職問題にからんだ常設委員の新設決議だけであったことは、こうした事態をもっとも象徴するものであった(『大阪朝日新聞』29・11・22)。



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