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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    一 政党政治下の県政
      地方紙と政党政派
 東京や大阪の大都市で発行された大新聞は、日清戦争以後明治三〇年代に入ると、「不偏不党」をかかげる報道本位の商業新聞へと転換をはかるとされる。部数拡大をはかる商業主義への傾斜は、朝日新聞が中等学校野球などのスポーツや娯楽記事を多く掲載する大正中期以降より強くなり、さらに満州事変以降、記事ばかりでなく映画・講演会などを加え戦争政策に加担するようになるといっそう強くなっていった。しかし、中小の地方紙は明治末から大正初期にかけて不偏不党を標榜するものがあいついだが、昭和期に入っても依然として政党の機関紙的側面(党派性)をもち続けていた。
 内務省警保局は、一九二七年(昭和二)一一月末現在における新聞・雑誌・通信社の現況調査を全国各府県に照会しており、その結果を特秘文書『新聞雑誌及通信社ニ関スル調』としてまとめていた。これによって昭和初期の福井県における新聞雑誌の発行状況をみてみよう。
 まず、注目しなければならないことは、小規模な新聞が多彩に県下各地で発行されていたことである。政友会と民政党の二大政党系の新聞だけでなく、福井市では福井県労働同志会の『福井勤労新聞』と実業同志会系の『福井通信』が少部数ながら発行されていた。さらに、武生町では労農党や日農県連の機関紙的役割を果たしていた『武生中央新聞』が、大野郡勝山町では社会民衆党系の『越前勝山新聞』が発行されており、一方敦賀町には『敦賀国粋新聞』もあり、まさに県下の新聞紙界は大正デモクラシーの潮流を反映していた。
 そのなかで、福井市で発行されていた日刊の『福井新聞』、『福井日報』、『新福井日報』が、部数一万前後と県内では比較的規模の大きな地方紙であった。とくに、元憲政会幹部で県政界でも重きをなしてきた三田村甚三郎や今村七平が経営する『福井新聞』と、山本条太郎の個人出資にたよる『福井日報』とは、それぞれ民政党と政友会県支部の機関紙的側面を強くもっていた。
 また、こうした地方紙の党派性は郡部の小規模な新聞にも色濃く現われていた。明治期に三国町で創刊された『みくに新聞』は「政治的色彩濃厚」とされていたが、県会議員を長くつとめた濃畑三郎が経営していた。坂井郡が杉田定一以来政友会の金城湯池であったことが、この新聞の党派性の背景にあった。ところが、同じく明治期に小浜町で創刊された『若州新聞』では、「党派・政治的傾向」は民政派で「元憲政会ノ機関紙タリ」とされているが、創業以来の経営者中村市五郎の党派は「政友、元民政」と、またおもな関係者の山口嘉七は「政友」と記載されている。こうした民政党と政友会の混淆は、大正期憲政会の代議士で二七年七月の民政党県支部発足時は民政党員であった山口嘉七が、翌二八年の総選挙をひかえ嶺南地方を地盤に民政党から添田敬一郎の出馬が予想されたため、政友会にくら替えしたためにおこった。さらに、小浜町の新聞発行状況をよりくわしくみると、二二年に政友会系の『嶺南新聞』とともに、三方郡出身でのちの県会議員河村仁右衛門によって『若狭新聞』が創刊されていた。同紙は元政友本党系の民政党員の添田がおもな関係者であり、「民政党ノ嶺南三郡ニ於ケル機関紙」とされていた。同地方における山口と添田の対立が、脱党問題とも絡んで新聞の党派性に色濃く反映されていたのである。
 このほか政友会の強い大野町の『越前毎夕』には、おもな関係者に同地方の有力者とともに「大野町会議員全部(政友)」という記載がある。また、民政党と政友会の対立の激しかった武生町では、『福井新聞』の刊行に深くかかわっていた三田村甚三郎や土生彰が、同町の政友会系の『北陸タイムス』に対抗して、また普選による総選挙をひかえて、ある意味ではわざわざ『越前新聞』を創刊していた。このように地方紙は、県下各地域の政党政派の勢力関係と密接不可分の関係をもっていたといえる。また、『若狭新聞』の河村仁右衛門(一八九六年生まれ)や『福井県青年』の青木清左衛門(一八九九年生まれ)のように、若くして新聞・雑誌を発行し、その活動を基盤にのちに県会議員として登場する人物がいたのも、この時期の特色の一つであった。
 なお、『新聞雑誌及通信社ニ関スル調』が刊行された四年後の三一年、『福井評論』(31・5)は、「福井市内の日刊新聞と勢力」について、市内で印刷発行される日刊新聞と云へば、福井新聞、福井日報、新福井日報の三紙があり、純然たる独立紙は福井新聞だけで、福井日報は単独紙としてよりも読売新聞の併読紙としてその声価をなしてゐる、新福井日報は新愛知新聞社の直営であり、新愛知新聞の附録紙であると述べていた。このほか市内に支局または通信部があって「福井地方版」をもつのが、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』、『名古屋新聞』であり、さらに「北陸版」またはこれに準じる方法で福井地方のニュースを報道するため記者を駐在させているものに、『大阪時事新報』、『北国新聞』、『北陸毎日新聞』、『報知新聞』などがあった。それとともに「福井地方は移入新聞の跳梁を恣にさせてゐる」としてその原因を述べているが、大新聞の福井進出は同年九月勃発の満州事変以降ますます激しくなっていった。また、翌三二年春に山本条太郎が出資をやめると『福井日報』が事実上ただちに廃刊されたように、不況や大新聞の進出とともに、政党政治の後退が地方紙の存立基盤をせばめていた(『福井評論』32・5)。いいかえれば、昭和初期の福井県でも多彩な展開をみせた地方新聞界ではあったが、軍部に対抗し政党政治を育て守り抜く力には成長できなかったともいえよう。



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