『通史編6 近現代二』は、『通史編5 近現代一』が明治・大正期の近代福井県を対象として叙述した後をうけて、六〇余年間続いた昭和期を中心として現在にいたる福井県の政治・経済・社会構造の展開を描写している。世界史的にみると、両大戦間期と呼ばれる第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期を境として、これ以前の時期を「近代」、以後の時期を「現代」と呼び、市民革命と資本主義経済の確立により成立した「近代」と、世界戦争と革命、世界大恐慌の経験を通じて、市民社会の原理と経済調整のしくみに修正が生じた「現代」とは質的に区別される。一九二六年にはじまる昭和の時代の歴史は、まさに「現代」史である。おりしも、昨年、一九九五年は第二次大戦終結後五〇年という、ある種の区切りの年であったが、国の内外であらためて大戦と戦後社会の評価をめぐって物議を醸すできごともいくつかおこった。こうした時期に、福井県の現代史をまとめあげることは、ある意味では歴史の偶然のなせる業ではあるが、それなりに意義の深い事柄であろう。
ところで、古代史に悠久のいにしえに想いをはせるロマンがあり、中近世史や近代史に自らのルーツ捜しという知的誘いがあるのに比べれば、現代史は、その大部分は現存する人びとの当事者としての記憶にある事実であり、一般の読者にとって歴史の面白さを満喫するにはやや役不足であるかもしれない。また、人によっては、当事者としての実感と歴史の叙述とのズレに大きな不満を感じるむきもあろう。しかし、個人にとってもまた社会集団にとっても、人間が生き続ける以上はつねに自己確認の作業が不可欠であるとすれば、当事者の文脈と不即不離のかたちで事実を再構成することにより一定の歴史像を提供し続けることは、社会科学分野の専門研究者の責務に等しい。人が変わり時代が変われば、当然事実の再構成のしかたも変わる。したがって、本巻は、現時点における福井県の現代史の総括といってさしつかえない。そういう意味では、今後、これまで研究の蓄積が乏しかった福井県の現代史研究の踏み石となるならば、本巻に課せられた役割の一半を果たしたことになるであろう。さらに生硬な叙述のなかに、読者の自分史の形成に資するものがいささかでもあるとすれば、それは著者たちにとって望外の喜びである。
さて以下では、本巻を繙こうとする読者の方がたのために、昭和戦前期、戦時期・占領期、戦後期の三つの時期について、政治・経済を中心とする時代の特質を述べてみたい。 |