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序章
  戦後期
 戦後の地方政治の特徴は、中央政府を通じた財政資金の配分をめぐって公選知事が地方を代表して中央政府と交渉を行う、いわゆる陳情政治を前提に展開した点にある。福井県では、小幡治和、羽根盛一、北栄造と三代続いて旧内務官僚出身の知事が選出されたが、戦後の地域の開発欲求を充足するためには、中央政府との交渉能力の高さが重要であったからであろう。他方、経済成長が軌道に乗り、県民の関心が多様化するにいたると、交渉能力の高さとともに多様な利害を調整しうる大衆政治家の登場を県民は期待することになった。初の県民知事である一九六七年(昭和四二)の中川平太夫の当選は、まさにこうした文脈のなかで理解されるべきものである。中川は共産党をのぞくオール与党体制のもとに五期二〇年間知事としてその職を果たした。
 一方、県民の主たる関心は個々の所得水準の上昇とともに、産業基盤、生活基盤の整備による目に見えた生活環境の改善であり、県の主要な施策はこうした県民生活の向上を目的とした公共土木事業を中心に推移した。真名川総合開発と九頭竜川電源開発に代表される水資源開発や、北陸トンネルの建設と北陸線の電化、国道整備といった交通基盤整備は、国の開発政策の展開に沿ったものであったが、県にとってもその実現は焦眉の課題であった。さらにこうした地域開発政策の延長線上で、県は、六〇年代には経済開発の拠点として九頭竜川河口の三里浜一帯の臨海工業地帯の造成事業と、過疎地域振興の手段として原子力発電所の誘致に取り組むことになる。そして、中川県政のもとで、この臨工と原発の問題は県政を揺るがす大きな問題となっていくのである。
 戦後の福井県の経済の特徴の一つは、六〇年代以降の合繊織物業の隆盛である。明治期の羽二重の勃興以来、福井県の織物業は、つねに輸出向けの量産品を中心に発展を続け、したがって市場の変化への対応も敏速であった。昭和初期の人絹の登場、六〇年代の合繊への転換は、他の織物産地にはみられないほどスムーズに進行したのである。じつは、福井県は、繊維産業の工業出荷額が製造業全体に占める比率において、戦前以来一貫して全国都道府県の首位の座にあるが、これは、このような福井産地の適応能力を示す一つの証拠といえよう。福井県の織物業がいよいよ苦境に直面するのは、主要輸出先である中東地域の停滞と円高の進展、東アジア諸国の急追に直面した八〇年代なかばからであり、八七年には工業出荷額に占める比率がはじめて電気機械工業を下回ることになる。
 もう一つの特徴は、戦後日本農業を特徴づける言葉である「米と兼業の農業構造」を典型的に示している点である。構造改善事業等を通じた土地基盤整備や機械化の進展により、基本法農政の意図とは異なり、米単作がいっそう進展し、農業労働の減少は家族の多就労による農外収入の拡大を可能としたのである。農家生活も、所得や消費水準において都市勤労者世帯をしのぐ「豊かさ」を享受することになったが、他方、農業就業者の大幅な減少と高齢化の進行、農業をめぐる内外の環境の激変により、福井県農業の将来像には暗い翳りがさしつつある。



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