監修のことば
『福井県史 通史編6 近現代二』は、昭和恐慌より現在までを叙述する。本巻のうち、顕著でまた特色あると思われる事項のうちより試みに若干を取り上げ簡短に紹介しよう。
昭和恐慌・満州事変より日中・太平洋戦争を経て戦後の諸分野、諸般の動向、この間県では大なる震災・水災などもあり、政治行政・社会制度・産業経済や教育文化などの改革・推移・展開に、県は国のそれに対応することまことに目紛しいものがあった。その一例として戦後着手された改革として、知事・市町村長の公選、地方行政機構や農地の改革、六・三・三・四制の教育制度施行などがある。これら改革成立までの過程、その実施・運営、また展開・効果など、また県の全国的なその実相との対比などを精細正確に追及することはもとより要請される。戦後およそ一〇年、地方財政は厳しい時代を迎えており、県の行政機構改革が進められ、これを整理縮小し経費節減と人員整理などが行われ、同じくこれにより市町村の財政再建への努力がみられた。また国の町村合併計画に対応して県下の進捗状況は如何であったか、その間合併に関する紛争もあったことを究明する。
県の産業として代表的なものはやはり織物業であろう。昭和に入ると絹織物業は輸出不振などのため人絹織物業への転換が図られた。一九三二年(昭和七)福井に人絹取引所が設置され、全国の人絹相場の標準と評価されるようになった。織物業は世界的な戦後不況に直面打撃をうけたに拘わらず、人絹織物生産高は農村の零細家内業を中心に増加して、県内織物生産高は増加する傾向にあった。朝鮮戦争ブームによって一九五一年(昭和二六)輸出向人絹織物生産高はピークを迎えたが、やがて相場下落し不況の様相を呈した。その後繊維部門の不況は続き、一時市況の好転したこともあったが、不況の進む中に人絹業界は破綻に向うことになる。先きの一時市況好転の背後には合成繊維へ転換の動きが本格化した事情があり、やがて人絹の時代は終って合繊の時代となり、県は全国一の合繊敵物産地となった。一九八〇年代には、合繊織物業も韓国・台湾などの追い上げをうけ、輸出先きの中東市場の停滞などもあり、厳しい時代を迎えることになる。
戦後の県の企画事業の顕著なものとして総合開発がある。県は一九六一年(昭和三六)総合開発計画を発表し、その構想は以後改訂も行なわれたが、その中に奥越電源開発があり、また三里浜の福井臨海工業地帯造成計画がある。
奥越電源開発の中核として、一九六五年(昭和四〇)五月電源開発北陸電力の二社が長野発電所工事に着手し、長野ダム(のち九頭竜ダムと改称)その他の諸ダムを造成し長野発電所等発電の水源とした。
福井新港を中心とする福井臨海工業地帯造成のプランは一九六九年(昭和四四)九月発表された。三里浜砂丘地に福井新港を造り、工業用地を造成し、アルミ製錬加工を主体に、火力発電所や企稟を誘致し、重工業地帯を建設するというのである。一九七一年(昭和四五)着工し一九八五年(昭和六〇)完成の企画であったが、一部計画を手直し、一九七三年(昭和四八)北陸電力福井火力発電所は営業を開始し、また石油備蓄基地の誘致をはかった。しかしそれら意図の実現は容易でなく、福井新港の利用も少なく、経済景況などの事情もあって企画は停滞するのである。
右の県の開発企画のほか、県内の新規の顕著な施設として原子力発電所設立がある。敦賀側は日本原電により美浜側は関電によって設立企画され、両発電所は一九六七年(昭和四二)五月起工、敦賀発電所は一九七〇年(昭和四五)三月、美浜発電所は十二月に営業運転を開始した。原子力発電所が地域の振興開発や安全性などの諸問題を投じていることはよく知られた事実である。
『資料編12上』は一九八八年(昭和六三)、『資料編12下』は一九九一年(平成三)の刊行で、この二巻は昭和恐慌期の一九三〇年(昭和五)前後より経済的に日本が高度成長期に入った一九六〇年(昭和三五)ころまでの資料を収録している。本巻は通史として、ほぼこれに対応しているが、それ以後の資料、特に繊維関係・農業農村関係などの資料収集に努め、なお県外調査によって補備するところも少なくない。
本巻の執筆者は一九名である。先きに紹介した事項は、本巻叙述のなかより恣意的に若干を取り上げて簡短に記述したに過ぎぬ。もとより本巻においては右の事項を含めて、諸分野諸項目にわたり、時代を逐うて厖大な資料に即して慎重に考究し、精細的確に記述している。特に最近、現代の事態を正しく把握することは至難なことであるが、本巻では第七章において簡潔に誤りなきよう叙述に努めている。
擱筆するにあたり、本巻の編集・執筆・刊行を担当された諸氏に深く敬意を表し、資料の採集・提供・整理に援助・協力を賜った各位に厚く感謝を捧げるしだいである。
一九九六年三月
小 葉 田 淳
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