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 第五章 大正期の産業・経済
   第四節 社会資本の整備
    三 小浜線の敷設
      小浜鉄道の挫折
 小浜鉄道が出願する二十日前の明治二十八年(一八九五)十月十一日、渋沢栄一ら五八人が、京北鉄道株式会社の設立を出願した。同社の計画路線は、京都鉄道の起点である京都府朱雀野村から粟田口町・滋賀県大津町・今津村を経由して敦賀町にいたり、常宮に達するもので、創立発起人には、渋沢栄一・大倉喜八郎など明治財界の要人が参加していた(運輸省移管公文書)。二十九年三月、官設予定線の敦賀・舞鶴間については、小浜鉄道による敷設が認可されたが、競願となった今津・京都間は、両社の激烈な争いが展開された。
 三十年四月五日、鉄道会議は小浜鉄道への仮免状下付を可決した。小浜支部の「往復書状並ニ電信控」には、東京本部発の電報として「ゼンセンノゾミトヲリカケツセリアンシンセヨ」と大書されている。その時の模様を支部の「日記」は、「電報接シ志水源兵衛氏直ニ朗読セラルヽヤ待ニ待タル満席委員始メ外一同拍手小浜鉄道万歳ノ声暫ク不止」と記している。四月十日、祝賀会が今富村の「八ツ菱座」で開催され、周辺各村をあげての祝賀行事は十二日夜半まで続いた。
 四月十五日に東京で委員会が開かれ、京北鉄道の株主への株式の分与や敦賀・常宮間の延長敷設、五月末までの株式申込みなどが決議された。しかし、五月末には、景気の悪化で若狭地方をはじめ京阪地方の申込者が大減少し、小浜支部では運動費にも不足が生ずるようになった。状況は、東京本部でも同様であった。
 三十年九月十三日、「仮免状」が下付されたが、一八か月以内に本免状の申請がない場合には無効とされた。小浜支部は、十月十一日、雲浜会堂で、遠敷郡長・郡会議員・村長を招き実測に関する会議を開催した。十月末には三方郡で、十一月には大津支部で、さらに翌年三月には大飯郡で開かれている。実地測量は、十月末より小浜・今津間、井ノ口・敦賀間で開始された。この間、三十年に始まる日清戦争後の恐慌で、株の申込みや証拠金の納入、地方株主で負担する一株三〇銭の測量費の納入が滞り、三十一年五月には、組屋ら二三人の連印で、伯爵酒井忠道と家令佐伯成允に測量費の立替えを嘆願している(吉村篤家文書)。実地測量などの遅延で、期限内の本免許状申請ができず、三度にわたる本免許状申請の延期でも事態は好転せず、三十三年七月十二日には仮免状が逓信省へ返納された。



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