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 第五章 大正期の産業・経済
    第四節 社会資本の整備
     一 電気事業の発展
       電力事業の系列化と合併
 
 大正後期の県内の電気需要は、停滞傾向にある電力(十年を一とすると、十三年は〇・七七)に対し、電灯分野での一戸あたり電灯個数(十年二・二灯、十三年三・二灯)や一灯あたり燭光数(十年一一・六燭光、十三年一二・七燭光)の伸張が特徴的である。供給の体制は、京都電灯・越前電気を中心とする小規模な水力発電所を基盤に、不足分は配電会社の受電によっていた。
  大戦以後の長期的不況下で、福井県内においても、京都電灯と越前電気の両社を中心に統合がみられた。大正十二年(一九二三)十月に福井電力、十三年十月に南越電気、十四年八月に大正電気が、安定経営をめざして京都電灯の系列化に入った。これらは、昭和十五年に京都電灯に買収されている。昭和二年六月には、若狭電気・帝国電灯山陰支社耳川営業所(旧耳川水電)・敦賀電灯が京都電灯と合併した。この合併で嶺南地方全域が京都電灯敦賀・若狭両支店の配電下に入った。なお、関西地方では、周波数六〇サイクルが一般的であったが、敦賀電灯と若狭電気は五〇サイクルであったため、若狭支店は三年二月に、敦賀支店は八年一月に周波数の統一を行った(『京都電灯株式会社五十年史』)。
  大正十四年十月、越前電気に三国電灯と武周電力の二社が合併した。十四年十一月発行の『第壱回営業報告』によると、発電出力は、持越・蒲生・川上の各水力発電所と大同電力からの受電一〇〇〇キロワットの計三〇一〇キロワットで、配電区域は、今立郡一町一八か村、南条郡一町二村、丹生郡一二か村、坂井郡二町一七か村、さらに石川県下西谷村の四郡四町五〇か村にのぼっている。配電戸数は三万六一六六戸、電灯数は九万一二六五灯となっている。動力では供給数九〇三戸、二九五九・五キロワットで、用途別では、機業、精米業、製紙業の三者で供給戸数・馬力の約七〇パーセントを占めた(平野三郎家文書)。また、昭和六年、十二年には日野川水力電気、河野水力電気を合併している。
  福井県内に需要先をもつ電気会社は、大戦後の長期的不況で行きづまりを迎えた。電気鉄道の発展や人絹繊維工業の勃興があるものの、重化学工業のように飛躍的な需要増大につながるものではなく、安定した経営のため系列下や合併が進められた。京都電灯福井支店や越前電気は、その中核的な会社として県下の電気市場を二分したが、この二社も、昭和恐慌とその後の戦時経済の進行のなかで、電力の国家管理政策のもと、さらに大きな統合を余儀なくされていった。



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