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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    一 工場制工業への転換
      機業家の産業組合
 明治二十年代から機業家を中心とした「社」が、県下各地で結成され、共同で製品販売や原料購入を行っていた(第三章第二節二)。福井県では、機業家の団結が石川県などと比べ強固であったとされているが、明治四十二年(一九〇九)の「産業組合法」の大改正により、組合の結成が比較的簡便に行えるようになると、社にかわるかたちで機業家による産業組合が結成されはじめた。
 四十三年十月には、「大野織物信用購買生産販売組合」が結成されたのを初めとして、以後福井市、大野・勝山町、春江村などの主要産地に産業組合が結成された。四十五年二月二日の『福井新聞』は、福井市の例をあげ「昨今当市橋南機業家は小資本の独立による圧迫に堪え兼ねて」とその設立目的を説明している。産業組合を設置し購買・販売事業を共同で行うことにより、資金融通の条件を改善しようとしていたのである。とともに、「目下同様の組合を設立せる処は、春江村の共厚舎、勝山・鯖江の購買販売組合にしていづれも相当に活動し且成果を収め」ているとしている。この記事によれば、春江村の場合は「社」がほぼそのまま産業組合に転換していったといえよう。
 また、同日の『福井新聞』の別の記事には、大野織物信用購買生産販売組合が臨時総会を開いて、共同精練加工の件を決議して県へ提出したが、県は郡長を通じて決議取消を求める方針であるとある。前述した福井県精練株式会社への統合に不満な機業家が、統合後も産業組合によってこのような動きをみせていた。しかし、明治期には県下でわずか五組合の設立をみたのみであった『五十年史』)。ただ、明治四十四年設立の「勝山機業兄弟合資会社」のように、産業組合結成の機運のなかで、一四人の機業家の合同により生まれた会社(資本金四万円)があったことは注目される(『勝山市史』三)。
 ところが、大正三年(一九一四)八月に第一次世界大戦が勃発すると、一時期、海外輸出がまったく途絶えた。その結果、絹織物価格は大暴落し、機業家は休機と職工の罷免に追い込まれていた。この海外輸出の途絶はごく短期間であったが、機業家のうけた打撃は大きく、資金繰りに支障をきたし倒産するものがあいついだ。この苦境を打開するため、県が政府へ再三要望していた「時局救済資金」として二六万九〇〇〇円が勧業銀行を経由して貸与されることとなった。県はこの資金貸付けの受け皿として、産業組合の設立を勧奨した結果、同三年には表213にみるように多くの組合が設立された。その後、六年には、県下の産業組合は、一九組合となり、同年十一月には「保証責任福井県織物信用購買販売組合連合会」が設立された。さらに、戦後恐慌が本格化した十年七月には、二九組合にまで増加していた(前掲『五十年史』)。

表213 機業家の産業組合(大正5年)

表213 機業家の産業組合(大正5年)
 表213は、五年末の機業家の産業組合の事業成績の概要を示している。同表によれば産業組合による製品販売高は、約一〇〇〇万円にのぼり、県下絹織物生産額の約三〇パーセントを占めるまでにいたっていた。また、商工省『本邦輸出絹織物ノ取引状況』(昭和四年)は、「産業組合法ニヨル輸出絹織物関係組合ハ、全国各機業地中福井地方最モ発達シ、其ノ数亦最モ多イ」と述べているが、福井県においては絹織物業に占める産業組合の地位は決して小さいものではなかった。



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