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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    一 工場制工業への転換
      精練業の統合
 明治三十八年(一九〇五)に「輸出羽二重取締規則」(農商務省令第五号)が、翌三十九年には「輸出羽二重精練業法」(法律第二三号)(以下精練法と略記)が公布され、後者は四十年七月から施行されることになった。海外での羽二重の競争力の確保のため、政府が行政指導により日本製品への信用の維持をはかろうとしたのである。
 この精練法第一条により、輸出向羽二重の精練業を営むものは、精練の方法・工場の設備などを地方長官に願い出てその許可が必要となった。同法の施行細則はこれをうけて、工場設備として蒸気汽鑵・遠心式絞水機・羽二重ロール・霧吹機などの設置を義務づけた。また、第二条では、農商務大臣は一定地区内の精練業者の数を限定できることとなった。この精練法に対しては、議会での審議段階から、同法の施行が小規模な精練所を強制的に淘汰し、「独占の悪弊」を招く可能性が高いことを指摘されていた。全国的には福井・石川両県などの同業組合が制定促進派であり、福島県など輸出向羽二重生産のシェアが少ない県は「全国輸出羽二重精練業法案反対同盟」を結成して、精練法の制定に対して強く反対していた。
 福井県でも、精練法が施行された四年後の四十四年に、県は精練業者の過当競争を排除し、精練方法の統一によって品質改善をはかるため精練工場の統合にのりだした。この統合の背景には、過当競争による精練業者の経営難があった。とくに、福井市では精練業者の乱立が、練賃を抑えるとともに、熟練職工の争奪をも引き起こし、図60にみられるような職工賃金の高騰を招いていた。市内の業者が合同に賛成したのはこのためであった。
図60 精練業職工の賃金(明治37〜43年)

図60 精練業職工の賃金(明治37〜43年)

 しかし、各地域の精練を独占していた郡部の精練業者には、合同の必然性はなかった。そのため、合同による運送などの不便が増し、かつ合同により精練業者の力が増大することを恐れた機業家や商業者を巻き込んで、合同反対の動きが起こった(『福井北日本新聞』明44・2・8、『福井新聞』明44・4・8)。とくに、丹南三郡での反対運動は激しく、武生の佐藤工場が合同に参加したのは、合同成立の一年あまり後の大正元年十一月であった。
 県は合同委員に、精練業者側から伊藤寅次郎・黒川栄次郎・稲毛平太郎の三人を、機業者側から松井文太郎・内田清・中島与作の三人を、商業者側から諸新平・開田幸吉の二人を委嘱し、それぞれの業界の調整にあたらせた。精練の合同には、前述のように精練業者だけでなく機業者と商業者の協力が不可欠であったのである。市部の一部や郡部に根強い反対があったにもかかわらず、知事の強力な行政指導により、四十四年八月には「福井県精練株式会社」(資本金二〇万円)の創立にこぎつけた。社長には林精一が工業試験場長を退官して就任、専務取締役には黒川栄次郎が就いた。当時操業していた一六工場のうち、一四工場の賛成で合同が行われ、このうち五工場が閉鎖され九工場で発足することとなり、本社は第一工場となった黒川練工場に置かれた。その後、前述のように武生町の佐藤工場が大正元年に参加し、第一〇工場となり、同年末には最後に残った丸岡町の樋口工場が参加し、ここに県下の羽二重精練工場の統合がなされたのである(『セーレン百年史』)。
 その後、大正四、五年ころから品種の多様化が進み、羽二重以外に縮緬、絹紬などの生産が増加した。おもに縮緬用の撚糸製造と精練のために、五年五月に福井撚糸染工株式会社が資本金一〇万円で設立された(社長安本吉次郎・専務黒川栄次郎)。さらに、九年九月には北陸絹紬精練株式会社など五工場が合併して福井県絹紬精練株式会社が創立された。
写真162 黒川練工場

写真162 黒川練工場

 このように製品の多様化が進展し、羽二重・縮緬・絹紬など製品別の精練工場の統合がなされてきたが、戦後恐慌がながびくなか、精練業界は再度の経営合理化をせまられた。十二年五月には前述の福井県精練株式会社・福井撚糸染工株式会社・福井県絹紬精練株式会社の三社に島崎織物株式会社・丸三染練整理工場(ともに絹紬精練)の二社を加えた五社が合同し、資本金二〇〇万円で福井精練加工株式会社が創設され、ここに福井県における絹織物の精練業は、その統合を完成させたのである。



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