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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    一 工場制工業への転換
      電動機の普及
 力織機導入の当初においては、蒸気機関が動力として採用されていた。明治四十一年(一九〇八)の『県統計書』の「工場細別」(職工数一〇人以上の工場)によれば、織物工場四四一のうち一三工場が原動機を設置しているが、それらはすべて蒸気機関であった。それが翌四十二年になると、原動機設置六八工場のうち八割にあたる五六工場で電動機が採用されるようになり、これ以降の福井県における力織機導入は、電動機化を意味することとなった。
 三十二年に京都電灯株式会社福井支社によって、足羽郡酒生村宿布(福井市)に県下では最初の水力発電所が建設され営業を開始した。その後、同社は四十一年に大野郡北谷村に中尾発電所、四十四年には足羽郡下宇坂村に小和清水発電所を建設した。これらの発電所からの電力供給が、図57にみられるように、福井市への電動機の導入を、ついで大野郡や坂井郡で電動機採用率が高まっていくことを可能にしたのである(第五章第四節一)。
図57 織物工場の郡市別電動機化率(明治40〜大正8年)

図57 織物工場の郡市別電動機化率(明治40〜大正8年)

 また、同社とともに昭和戦前期までの県下の二大電気会社の一つであった越前電気株式会社が、四十二年に今立郡上池田村の持越発電所からの電力供給を開始したことが、今立郡を中心とする電動機採用率を高めたのである。このような電動機化の進展は、福井市・大野郡・坂井郡・吉田郡・今立郡などで顕著であり、電力の供給は福井県における織物業の展開に顕著な地域差を生むことになった(図57)(杉浦芳夫「絹織物工場における電動機の普及」『経済研究』三九―四)。
 さらに、力織機化は機業の経営形態にも大きな影響をあたえた。力織機は、職工数一〇人以上とされる「工場」において積極的に導入されたことは、図58が明確に示している(南亮進・牧野文夫「農村機業における力織機化の要因:1910〜20年」『経済研究』三六―四)。明治三十八年以降大正初期にかけて、絹織物業においては製造戸数・職工数とも減少しているが、そのなかで工場数と工場職工数のみが漸増していた。このことは工場を中心とする力織機の導入過程において、それに取り残された多くの零細機業が没落していったことを意味した(資17 「解説」)。
図58 福井県の機業規模別力織機数(明治38〜大正10年)

図58 福井県の機業規模別力織機数(明治38〜大正10年)

 また、大正中期には、福井県の特色の一つであった出機といわれる賃織業の衰退も激しかった。同業の盛んであった武生地方における機業家の工場生産への転換状況を、『北陸実業タイムス』(大7・3・16)はつぎのように報じている。
  昨年来好況を呈し来り資金の潤沢となれる結果、各機業家は競うて工場の設置を企画し、力織機を据付
  けて一層盛大に製織に従事すべく、既に工場建築中のものもあれば、遠からず出し機本位を工場本位に
  変更して出し機を一掃して斯業の発達を期すべし
 このように、海外での製品の競争力強化のため、生産コストの低減が強く要請されたことが、大きな要因となって、福井県や石川県の輸出向羽二重業を中心に力織機化・電動機化が、明治四十年代から大正前半にかけて急速に進んだ。この力織機化は電気会社による電力の供給能力に大きく規定され、一方では、機業家の力織機化要求が発電所の建設や配電区域の拡大をもたらすといった、力織機化と電気会社の相互依存関係が確立されたのであり、羽二重業の地域差形成に決定的な影響をあたえた。さらに、力織機化のための必要な資金力が相対的に大きくなり、資金調達が難しかった零細機業を没落させていった。いいかえれば、この力織機化が輸出向羽二重業を中心とする機業の工場制工業を進展させたのであり、第一次世界大戦期の空前絶後の羽二重生産を可能にする前提であった。



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