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 第五章 大正期の産業・経済
   第二節 絹織物業の展開
    一 工場制工業への転換
      力織機の導入
 この明治三十八年(一九〇五)以降における福井県の生産シェアの漸増要因としてはいくつかが考えられる。まず、三十年代に参入した多くの府県における新興の輸出向羽二重業が、輸出不振のなか停滞または後退していったことが、相対的に福井県のシェアを拡大させていた。しかし、より大きな要因としては、生産コストの低減をはかるために、福井県では全国的にみても急速に力織機化が進展したことがあげられる。
 三十五年に、「主として羽二重製織に力織機応用試験を成すべき使命」を帯びていたとされる福井県工業試験場が設置され、翌三十六年には農商務省から貸与をうけたフランス製力織機五台を取り付け、試験製織を開始した。同試験場は、さらに三十九年には国産力織機による試織を行い、県下への力織機導入の先導的役割を果たしていた(福井県絹織物同業組合『三十五年史』)。このような政策的誘導もあり、比較的安価な国産力織機が四十年以降、福井市内から郡部へと急速に導入されていくことになる。
 四十年に二九五台導入された力織機は、翌年以降手織機に取って代わるかたちで急速に増加していった(図56)。この力織機導入の大部分は、輸出向羽二重業に向けられており、斯業が何よりも生産コストの低減を急務としていたといえよう。したがって、輸出向羽二重業では早くも大正二年(一九一三)に、また織物業全体でも翌三年には、力織機数が手織機数を超えており、まさにその転換は劇的なものであった。
図56 福井県の織物業の力織機・手織数(明治38〜大正10年)

図56 福井県の織物業の力織機・手織数(明治38〜大正10年)

 この力織機導入による生産コストの低減が、どの程度実現されたかを個別経営資料によって具体的に明らかにすることはできないが、前述の『輸出絹織物調査資料』の「羽二重業収支概算調」からある程度の類推が可能となる。表210は、四十二年末から四十三年前半時点の調査と思われる「同調」を、手織機・力織機とも一〇台の収支概算に加工して比較したものである。力織機導入の初期の段階では、一か月間の生産量は手織機が四〇疋、力織機が七〇疋であり、疋数は二倍を超えない。しかし、織機一台の純益は三倍強となっており、また織賃は一疋あたり一円一〇銭から六五銭へと二分の一近くまで低下していた。このような生産性の向上は、コスト低減が緊急の課題であった機業家にとって大きな魅力であり、「固定資本に於て力織機は手機に比し少なくも五六倍以上を要」するにもかかわらず、力織機が急速に導入される大きな誘因となっていた(福島県『産業視察報告』明治四三年)。

表210 羽二重業収支概算(明治42年12月)

表210 羽二重業収支概算(明治42年12月)
 ところで、この力織機の価格については、鯖江市橋立の菅原八郎右衛門家に、大正三年に「改良津田織機」二一台を購入した時の記録が残されている(資11 二―六〇)。それによれば、織機二一台とシャフト皮車などの付属品をあわせた購入価格は一八三三円五八銭であり、同家は五月から九月にかけて三回にわけ、約一〇〇〇円を支払っている。織機一台が七三円であり、付属品をあわせると一台あたり約八七円が必要であった。このように力織機導入のために必要な資金はかなりの高額にのぼり、さらにその資金の回収も前述の力織機一〇台あたりの一か月の収益から類推すると一年間以上の長期を要したと思われる。このように機業家にとっては、力織機導入は資金負担が大きかったが、それ以上に、生産性向上による海外での製品の競争力を確保しなければならなかったのである。



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