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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    三 その他の地域産業
      面谷銅山の鉱毒
 石炭鉱山や金属鉱山の手掘作業は危険がつきまとう重労働であった。そうした悪条件のもとで鉱夫を集め、坑内労働へと駆りたてるために鉱業資本家が用いた労務管理制度が飯場制度である。面谷銅山では鉱業社時代から飯場制度が確立していた。木炭輸送の車道をつくるため囚人労務者を雇ったことはすでに述べたが、飯場頭によって全国から集められた一般鉱夫も社会的には囚人労務者と相隣接する地位をあたえられていたといっても過言ではないのである。一般鉱夫の賃金は採掘した鉱石の品位と重量とによって日給として支払われていたが、明治三十三年(一九〇〇)四月に面谷銅山の鉱夫一〇〇余人は他山より賃金が安いと主張して争議を起こしている。当時面谷銅山には五〇〇余人の鉱夫が働いており、二割しか争議に加わっていない点などから飯場頭の中間搾取が背景にあったことも考えられる。いずれにしろ低賃金で一日一〇時間の重労働を強いられた面谷銅山の鉱夫は社会的には最下層の地位にあったといわざるをえない(『県勧業年報』)。この飯場制度は明治末期になっても生き続けた。四十五年六月六日の『福井日報』は「面谷鉱山の演芸会」という記事のなかで他国よりのおびただしい入鉱者の生活を管理する飯場頭数人の上に小頭四人、組長一人がいて鉱夫の日常生活をとりしきっているようすを報道している。
写真111 面谷銅山

写真111 面谷銅山

 面谷の産銅業はこのような特殊な労資関係を生みだしただけでなく、水源地や九頭竜川に対してさまざまな鉱害をあたえた。三十三年七月十四日の『福井新聞』は、「面谷銅山の鉱毒」と題する社説を掲げ、足尾銅山鉱毒事件の初期と同じ現象が起きており、一日も早く完全な除害工事を行わなければとりかえしのつかない事態になると警告している。社説の指摘によれば、真名川合流点より上流の魚類は減少し、明治十一、二年の渡良瀬川の状況と同じである。また、足尾銅山では濫伐と煙害のため水源地が禿山化し、大洪水を起こし、鉱毒を数万町歩の田畑におよぼしたが、九頭竜川水源の面谷鉱山もいま鉱毒予防工事を行わなければ渡良瀬川と同じ結果をひき起こすことが明らかである、としている。面谷銅山付近の禿山化については、「濫伐と烟毒との為に附近数百町歩の山相荒廃して草木発生せず土砂崩壊して山骨露出」と報道されていた。面谷銅山事務所ではその後烟毒防除対策にとりかかったようであるが、三十三年十一月十一日の『福井新聞』は、「面谷銅山除害設備視察記」と題するルポ記事のなかで、高い煙突(一〇〇〜一三〇尺)で亜硫酸ガスを拡散しようとしており、脱硫操作を行わない目先だけの危険拡散の設備である、と批判している。面谷川に流出する選鉱廃水から生ずる鉱毒や煙害に対し、地域住民は反対運動を起こし、会社側もその責任を認めて、三十二年から七か年、上穴馬村大谷・野尻・長野・鷲・角野の各区に合計二二五〇円の賠償金を支払っている(『和泉村史』)。こうした動きに呼応して、福井県は四十五年度から銅山における荒廃地復旧工事を本格化させ、積苗工・柵工・谷留石垣工・石垣工・護岸工・詰切工など一二町九反歩余を施行し、さらに一四町八反歩余に保護樹林として杉二万本、桧六五〇〇本を植えている。



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