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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    三 その他の地域産業
      面谷銅山の発展
 わが国の産業革命期における鉱山業は、石炭と銅を中軸として展開された。発展の契機は、明治二十五年(一八九二)の「鉱業条例」施行である。六年の「日本坑法」による一五年限りの採掘権が永久化されたため、財閥系および非財閥系の鉱業資本による機械の導入と鉱山の大規模化が促進されたのである。しかし、採掘そのものは依然として槌・たがねなど単純な道具を使用する手掘であったから、坑内での労働はたいへんきびしいものであった。表135は、二十五年に採掘が行われていた鉱山を郡別に示したものである。採掘鉱山は六四を数えるが、そのうち大野郡が大半を占めている。また、金属の種別では銀銅・銀銅鉛などが過半を占めるが、そのなかで産出額がもっとも多いのが、大野郡上穴馬村(和泉村)の面谷銅山である。二十二年一月に三菱合資会社が鉱業社から同銅山を譲りうけ、日清戦争後の軍備拡張の波にのって規模を拡大した。しかし、銅山の繁栄は、後述するように飯場頭によって全国から集められた鉱夫の酷使と鉱毒被害の拡大のうえに築かれたのである。

表135 県内採掘鉱山数(明治25年)

表135 県内採掘鉱山数(明治25年)
 面谷銅山の歴史は古い。天和二年(一六八二)以降、大野藩は城下の大野町民に経営をまかせ、銅山運上金を納めさせていたが、寛政三年(一七九一)に藩直営に移し、以後廃藩置県まで続けた。明治六年に採掘権は面谷村民の手に移り、旧来の方法で採掘していた。十四年十二月に滋賀県の杉村次郎は村民と契約して資本金一〇万円で鉱業社を設立した。翌年から銅山の改良にのりだし、坑道の内部をひろげて鉄路を敷設し、坑道車(一トン)によって鉱物土石の搬出を容易にした。また、大水車・風車を設置して鎔鉱能力を向上させ、一日に木炭四五〇貫目と人夫六〇人分を節約できるようにした。さらに冬から春にかけ休んでいた鎔鉱作業を一年中休みなく続けるため、岐阜県で広大な木炭山を買い入れ、一五年分の木炭を確保した。そしてその木炭の運搬を容易にするため、懲役人夫(囚人労働者)五〇人を雇って持穴村から鉱業社までの難路一里余を荷車が通れる車道につくりかえた。この改良事業は一年で終わり、銅産量は約三万貫と従来のほぼ二倍にふえた。鉱夫も三三〇人から一〇五七人にふえた。産出される荒銅は大阪と東京へ出荷されていた(『県勧業年報』)。三菱合資会社の経営に移ると、選鉱や製錬部門の機械化が一段と進み、三十年代に入ると水力発電所が設けられて動力源も増強された。日清戦争後は軍備拡張のため銅の需要がふえ、三十四年には銅の売却代金はこれまでの最高の二三万七〇〇〇円にのぼっている。当時の製錬は、産額の三分の一を大野製錬所で南蛮絞りを行い、銀は三菱大阪製錬所へ送っていた。絞り銅は京都の津田商店へ送り線条の原料になっていた。残り三分の二は直接三菱大阪製錬所に送られ、販売にまわされていた。面谷の銅は砒素分が含まれていたので主として電線に利用されていたという。四十一年に大野郡下穴馬村角野(和泉村)の巌洞山を支山としたのを手はじめに高根・坂東島・中天井・文六鉱山など郡内に支山を次々とひらいた。四十三年には上庄村若生子(大野市)に製錬所も設けている。わが国は大正八年(一九一九)以降、銅の輸出国から輸入国に転落し、面谷銅山も十一年に廃坑となる(農商務省商工局『工場通覧』)。



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