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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    三 その他の地域産業
      製糸業の展開
 わが国の製糸業は器械製糸(マニュファクチュア)ないし座繰製糸(小経営)として発展した。明治十七年(一八八四)には最大の輸出先がフランスからアメリカに代わり、同国絹織物業の需要と結びついて激増した。とくに器械製糸業の伸びが著しく、二十七年には器械糸の生産量が座繰糸のそれを上回るようになった。輸出量は三十八年にイタリアの生産量を、四十二年に清国の輸出量をそれぞれ上回り、わが国は世界最大の生糸輸出国となった。長野・山梨・岐阜三県と周辺県を中心とした器械製糸業の発展を支えたのは原料繭購入資金についての生糸売込商・地方銀行の前貸金融である。また、蓄積の基盤そのものは、製糸工女の低賃金・長時間労働と養蚕農家からの低価格での繭購入にあったとされている。しかし、福井県の器械製糸業は規模が小さく、生糸売込問屋から前貸金融をうけられる企業はなかった。ここに発展の限界がみられたといえよう。

表133 明治期の生糸生産高

表133 明治期の生糸生産高
 明治期の県内生糸生産高の推移を示したのが表133である。生産高は伸びているが上昇はゆるやかであり、絶対量は四十二年にいたっても三万貫を割っている。明治期の福井県の絹織物業界は、原料生糸の大半を二十年代は横浜から、三十年代以降は全国の主要産地から求めており、県内産生糸の大半は輸出用として横浜へ送られていた。このように絹織物業と製糸業は分断的であったが、四十三年の福井駅への生糸入荷量は約三〇万七〇〇〇貫目である(『福井県産業概要』明治四四年)。これに比べると、福井県の生糸生産高は約一割にすぎず、小規模性を端的にあらわしている。しかしながら、器械製糸業は、絹織物業につぐ重要な輸出産業として資本主義的発展をとげたのである。二十三年の『県勧業年報』は、「明治二十年来漸次旧習ヲ脱シ手挽ハ坐繰ニ坐繰ハ器械ニ逐次改良進歩ノ方向ニ趣(マヽ)ケリ……就中勝山製糸会社ハ技芸熟練ニシテ県下製糸業ノ牛耳タリ……遠敷郡ニハ雲浜蚕糸会社小浜製糸会社等アリテ近来大ニ改良ノ緒ニ就キ精良ノ器械糸ヲ製出スル」と、製糸工場のいきいきした動態を述べている。二十年代から三十年代にかけての生産種類別の工場数をあげると表134のようになる。抜群に多い絹織物工場はすでに述べているのでここではふれない。三十五年の『県勧業年報』によれば、工女ら職工一〇人以上を使用する製糸工場は三〇を数える。二十年代以降の創業が二五工場と圧倒的に多い。郡市別にみると、遠敷郡が一八工場でもっとも多く、大野郡の五工場、三方郡の四工場、今立、丹生、大飯郡の各一工場と続いている。糸繰枠を回転させる原動力の設備状況をみると、蒸気力一六工場、水力五工場となっており、九工場はいまだに人力にたよっている。農閑期の家内工業的な座繰製糸を含めた三十五年の生糸生産高の内訳は、器械糸が一万四五一五貫、座繰糸が一万二三〇一貫で、器械糸の方がやや多い。これを地域別にみると、器械糸の七一・七パーセントは遠敷郡が占め、早くも中心地となっている。第二位の大野郡は一四・三パーセントで大きく引き離されている。これに対し座繰糸は、大野郡が四一・三パーセント、今立郡が二七・二パーセント、南条郡が一一・九パーセントをそれぞれ占め、三郡を合わせると八〇パーセントを超える。表133に示したように、福井県は全国より一年早く二十六年に器械糸の生産高が座繰糸のそれを上回っている。しかし、四十二年にいたってもその差はごくわずかであり、改良座繰製糸が農山村で家内工業的に盛んに行われたことを示している。ここで有力な器械製糸会社三社に焦点をあわせ、経営の実態に接近してみよう。

表134 明治中期の工場数

表134 明治中期の工場数



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