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 第三章 明治期の産業・経済
   第二節 絹織物業の勃興
    二 輸出向羽二重業の勃興
      機業の地域的展開
 明治二十年(一八八七)に始まった福井県の羽二重生産は、表125のように急成長をとげて、三十七年のピーク時には県下織物総生産額の九六・五パーセントという比率を占め圧倒的地位を確立する。このことは、二十一年にはかなりの比率を占めていた丹生郡を中心とする綿織物(石田縞)や今立・南条郡を中心とする麻織物(蚊帳)などがその比率を急速に減少させ、その生産額においても停滞的であったのと著しい対照を示している。

表125 福井県の織物生産額

表125 福井県の織物生産額
 このように羽二重生産が、二十年代の半ばには、産額において群馬県をぬいて全国第一位となるのは、福井市での羽二重生産の急上昇とともに、それが郡部にも急速に広がったためであった。
 羽二重生産額の郡市別構成比をみると、二十二年には福井市が県内羽二重総生産額の九四・一パーセントを占めていたのが、二十五年には五二・六パーセントと急速に比率を下げ、さらに三十三年には五〇・六パーセント、大正八年(一九一九)には二六・五パーセントにまで減少する。これに対して、二十年代前半には福井市に接する足羽・吉田郡と今立郡が比率を高め、やや遅れて大野郡や坂井郡も羽二重生産の比率が増大する。しかし、丹生郡は明治期から大正半ばまで一貫してその比率が低く、まとまった産地を形成しなかった。また、南条郡も二十年代半ばに一時期かなりの比率をもつが、三十年代は一〜三パーセント台と低迷する。丹生郡と南条郡は、伝統的な綿織物や麻織物生産から羽二重への転換や新規参入が、他の五郡と比べスムーズに行われなかったといえる。さらに、坂井・大野・今立の三郡は、後述の力織機化の進展する明治四十年代から大正初期にいっそうその比率を高め、大正三年にはこの三郡で四〇パーセントを超え、福井市とほぼ同じ比率を占めるようになる(第五章第二節表211)。
 ただ、こうした二十年代における郡部への羽二重生産の展開は、ただちに農村部における中小地主の投資が主体ではない。羽二重生産における郡部の比率が約五〇パーセントとなった二十七年の『県勧業年報』には、郡部の主要産地として、吉田郡の森田・松岡村、大野郡の勝山・大野町、今立郡の粟田部村、南条郡の武生町などが記載されている(ほかに丹生郡朝日村ほか三か村と嶺南の遠敷郡小浜町と雲浜村の記載がある)。各郡の羽二重産額に占めるこれら町村の比率は、森田・松岡村が吉田郡の七五・七パーセント、大野・勝山町が大野郡の八〇・三パーセント、粟田部村が今立郡の五六・〇パーセント、武生町が南条郡の九二・〇パーセントとかなり高い比率を占めていた。
 これら郡部の町村は、大野・勝山・武生町と松岡村が旧城下町であり、粟田部村は江戸時代以来の丹南地方の商工業の一中心地であり、森田村は宿場町として形成され商業活動もなされていた。また、三十四年の『県勧業年報』には、羽二重の主要産地として、旧城下町であった坂井郡丸岡町と今立郡鯖江町や、また近世初期には領主が館を構え、その後も在郷町であった足羽郡東郷村があげられその生産状況が記載されている。
 このことから、福井県の二十年代から三十年代にかけての羽二重業の郡部への展開は、まず町部から開始されたことが確かめられる。また、大野郡勝山町においては製糸および羽二重業が主として地元商人の資本投下によって形成されたことが明らかにされており、他の郡部においても主として商人資本によって羽二重業が形成されたと推定できるのである(本川幹男「明治期勝山産業の形成」『北陸都市史学会誌』二)。そして、足羽・吉田郡の福井市周辺の村むらや今立郡の粟田部村や鯖江町周辺の村むらなどのいわゆる農村部でも、町部の商人の機業への投資に刺激をうけ、二十年代中ごろには羽二重業への参入が開始されるのである。



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