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 第三章 明治期の産業・経済
   第一節 農林水産業の発展
    三 農事改良
      農業技術の改良
 農業技術のさまざまな改良は、全国的にみて明治後期から末期にかけて急速に進められる。農業生産物の中核となる稲作で、育苗法の転機となる短冊形共同苗代は、福井県では、明治三十八年(一九〇五)十二月、「苗代田取締規則」(県令第三六号)を設け、翌三十九年九月より強力に実施した。また、正条植も合わせて行い、稲作の生育に実効をあげることになる。一方三十八年十二月、「産米取締規則」(県令第三七号)を公布して、稲収穫後の穀粒の乾燥・調製の具体的な仕法を明示し、積極的な「産米改良」に乗り出した。なお、短冊型共同苗代の普及とともに、播種量の節減と収穫量の増収をはかるため、同年より米麦種塩水選の奨励につとめた。
 米穀の品種改良については、従来とかく種類が多くて統一を欠き、品質の劣悪なものも少なくなかったので、県農会が四十四年に、県下の水稲分布状況を調査し、翌大正元年には推奨品種を百余種選定した。そして、翌二年農事試験場内に原々種田を置き、また足羽郡東郷村(福井市)・三方郡耳村(美浜町)の二か所に原種田を設置、四年には、さらに一一か所に分設した。翌五年は、農商務省の奨励方針にもとづき、原々種田を原種圃、原種田を採取圃と改称し、しだいにその規模の拡大をはかった。こうして、早稲・中稲・晩稲がともに、品種の数が減少の方向をたどり、大正七年(七一種)は、明治四十四年(一二八種)に比べ、五七種の減少をみた(『県史』三 県治時代)。
 種子の購入は、富山県東礪波郡の稲種生産地より供給されるものが多く、とりわけ、坂井・三方両郡で著しく目立ち、当地方に仰ぐ種籾の量だけでも、一〇〇石を越えるありさまであった。しかも富山県から供給されるまでの稲種は、晩稲が多かったのが、しだいに、「石白」「大場」などの早稲が栽培されることになる(『福井県産業概要』大正三年)。
 一方、害虫駆除については、早くも十九年三月に「田圃虫害予防規則」(甲第二七号)を設け、螟虫・浮塵子・苞虫・泥虫などの駆除につとめた。とくに三十年六月、浮塵子がまん延し、坂井・足羽・吉田・今立・敦賀・三方の各郡の被害が著しかったので、県は臨時予算をくみ徹底した害虫駆除を奨励した。また四十四年には、予防督励委員を設け、さらに、大正六年より技術員を配置して、駆除・予防にあたらせた。貯穀害虫駆除については、二硫化炭素の燻蒸法を奨励し、また野鼠の害がはなはだしいため、三十四年に県農会農事試験場で、野鼠駆除用窒扶斯菌培養のための器具を備え、培養菌を製造して希望農家に配布した。
 肥料は、明治期では、自給肥料としておもに堆肥・緑肥が奨励された。四十二年四月、県は「堆肥舎建設奨励規程」(県令第三二号)を設け、希望農家に奨励金を支出する措置をとったのが注目をひく。明治後期から大正期にかけて、魚肥・大豆粕など金肥(購入肥料)の消費量がふえ、さらに大正後期になると、過燐酸石灰・硫安など化学肥料の需要が高まった。このことも、農業生産発展の大きな促進力になったものと考えられる。
 牛馬耕については、すでに藩政期より大野郡で行われ、坂井・今立二郡がこれにつぐが、十七、十八年ころ福岡県の技法を足羽郡に導入したのを皮切りに、しだいに県下各郡に伝播した。さらに、四十四年以降、坂井・吉田・足羽・丹生の諸郡で伝習会を実施するなど、牛馬耕の普及につとめた(『福井県産業概要』大正三年)。
 一方、農業研究指導機関として、県農会では、三十三年四月、吉田郡円山西村町屋(福井市)に農事試験場を創設し、翌三十四年四月より業務が開始された。試験調査の対象は、米麦などの主穀を主とし、さらに、さまざまな果樹蔬菜類の品種の比較試験や栽培方法にかかわるものであった。米穀の品種については、当時県下各地で栽培されていた既存のものを収集し、その特性や収量の調査を行い、県下の気候・風土に適合する品種の検出につとめた。また、前述の短冊形苗代、稲籾の薄播および本田の正条植・緑肥作物の栽培・害虫駆除などについての試験を重ね、それらの有効なことを実証し、講習会や印刷物の配布などにより、改良技術の県下農家への普及徹底をはかったのである(『福井県農会史』、農務局『道府県主要作物改良奨励方法概要』)。
 二十年代までは、いわゆる「老農」による指導に頼るところが大きかったが、試験場の開設により、専門教育をうけた技術指導員の果たす役割が、しだいに重視されることになる。ところで同試験場は、第一次世界大戦後の大正九年、県に移管され、県立農事試験場としてさらに一層の機構の拡充をはかり、試験研究の成果を高める。
 なお、農会の試験場に先立ち、二十六年五月、松平康荘(第一七代福井藩主松平茂昭二男)による松平試農場(五町二反八畝)が、福井城址内に設けられた。果樹蔬菜の試験研究・種苗の配布に重点を置き、とりわけ杞柳・リンゴ・カキなどの栽培研究に精彩を放った。三十九年、場内に園芸伝習所を開設し、全国各地から伝習生が入所するという盛況ぶりであった。この伝習所は大正九年に閉鎖されるまで、一三期にわたり、園芸技術者一四二人を世に送り出した。十年、県庁の旧城内への移転にともない、同試験場は、坂井郡細呂木村山室(金津町)に移った。そして引き続き、県内の果樹園芸技術指導の重要な役割を担った(「松平試農記録」)。



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