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 第一章 近代福井の夜明け
   第一節 明治維新と若越諸藩
    二 福井藩公議政体路線
      「議事所」体制下の藩論
 慶応四年(一八六八)閏四月二十一日、政府は「政体書」を公布し、「五か条の誓文」の政治方針を、政治機構のうえに具体化する。太政官の七官のうち立法を担当する議政官は、上下二局からなり、上局は皇族・公卿・諸侯・藩士から任命された議定・参与が、下局(貢士対策所)は、各藩から選出された貢士が議員となった。
写真006 九十九橋北詰の御布告所

写真6 九十九橋北詰の御布告所

 ついで五月二十八日、貢士が公務人と改められ、さらに八月二十日、公務人が公議人に改称された。こうした情勢下で、参与の横井小楠は「議事の制」の運営につき、「政体書」の規定する立法・行政の両権が峻別されない点を具体的に指摘し、「議政・行政の本意に基き断然其分別を立つべきなり」と力説する(「議事の制に就きての案」)。
 また、時期をほぼ同じくして春嶽は、議事所の運営につき、「一新以来議事ト称スルノ事アレトモ、虚名ニシテ実効ナク、諸件悉ク廟堂ノ私議ニ決シテ広ク天下ニ公ケナラス、人心ノ服セス輿論ノ紛紜タル所以ナリ」と、議事所本来の機能が果たされないことを、彼が作成した「上書案」のなかで真剣に訴える(『戊辰日記』)。そして、「公議輿論」尊重の立法府の趣旨を十分生かすための具体的な方策として、単に藩主や藩士層ばかりでなく、「草莽」の庶民層までが建議できる途を開くための、「目安箱」設置の必要性を説く。こうした「衆論」を十分視野にいれての議院運営こそ、「万事公論ニ決シ、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク」方途であると判断する。
 福井藩では、すでに同年四月十六日、藩士および全領民に、「人心の塞りを除き、上下の情を通すため、目安箱を評定局大橋詰へ指出す」ことを周知徹底しており、春嶽はこの「衆論」を吸い上げるための目安箱の制を全国レベルに適用しようというのである(「家譜」)。このような「上下ノ心」を一つに糾合する政治のもとで、はじめて「経綸」つまり経済面の諸振興策の実があがり、真の民生安定をはかることができると訴えるわけである。したがって春嶽としては、福井藩での「公議論」尊重と「経綸」重視の藩政の基本路線を念頭においての「上書案」であったといえよう。



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