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 序章
 昭和五十六年(一九八一)福井県は置県百年を迎え、それを記念して新しい県の修史事業が行われることになった。本巻はこの置県の前史となる明治維新よりの十数年間を含め、大正末年(必要に応じて昭和初年)までのほぼ六〇年間の福井県の近代の歩みを、主として政治、社会文化と産業、経済の両面に視点をおいて叙述したものである。
 さて、置県前史といえる十数年間では明治政府の進める近代化(富国強兵、文明開化路線)の波にもまれる県民の姿を描いた。たとえば明治五年(一八七二)八月、足羽県新聞会社より第一号が発刊され、翌六年三月第一一号で廃刊された『撮要新聞』の記事に、また当時の諸布達の内容のなかにその具体的な様相を探る。また、明治四年廃藩置県以後の大区小区制から三新法体制、十七年の連合戸長体制ついで市制、町村制にいたる地方行政の変遷に若干の頁をさいた。そして大区小区制の実施期に全国各地で地方民会が行われ、敦賀県でも一部実施されたことが知られていたが、今回諸史料の渉猟の結果、敦賀県時代の地方民会の動向をかなり分明にすることができた。もちろん地方民会が明治政府による上からの民意調達の一手段であったことは否定し得べくもないとしても、当時政府の進めた近代化路線に対応した県民の姿態をうかがうことができよう。
 そしてようやくにして十四年二月今日の福井県が成立した。十八年二月三日の『福井新聞』に明治十四年二月七日福井県設置以来年々其当日ヲ以テ、羽畔風月楼ニ於テ祝宴ヲ開キシモ、楼上手狭ニシテ人数限ラサルヲ得ザルニヨリ、本年ハ広ク同志ト共ニ祝意ヲ表センカ為メ、当日照手座ニ於テ、正午十二時ヨリ開会シ、傍ラ能楽ヲ催シ歓ヲ尽サントス、県官諸君ヲ始メ地方同志ノ諸君此意ヲ賛成セラレ臨筵アランコトヲ乞フ、但御来会ノ諸君ハ来ル五日迄ニ、第九十二国立銀行竟成社ノ内ヘ御申込ミ、其節会費金四拾銭御持参被下度、会合証券引替御渡可申候、第四回 置県紀念会主唱者なる広告が掲載されている。このことは当時福井の旧藩士たちがいかに福井置県を喜び迎えたかの証左であろう。そしてこの彼らの歓喜する姿の裏面には、それまでの若越対立の様相と、これ以後の若越一体化への苦難の道が横たわっていたことを物語るものがあった。六〇年間の県の歴史は若越両地方の拮抗と融和との歴史でもあった。
 なお、福井の政治を語る場合には鶉山杉田定一を逸するわけにはいかない。彼は嘉永四年(一八五一)坂井郡波寄(福井市)に生まれ、明治八年(一八七五)二五歳で上京、『采風新聞』の記者として政治に関与して以来、昭和四年(一九二九)立憲政友会の長老として七九歳で没するまで、生涯政治運動に挺身した。彼の行動は福井における自由民権運動にまた政党の興廃に大きな影響をあたえた。かつまた一般に戦前の政治家が、しばしばその家産を傾けるを顧ず、ついに井戸塀を残すのみに終わるを通例としたのであるが、彼はその井戸塀すら残さなかった。残されたものは彼の政治経歴にまつわる数多くの文書類と墳墓のみである。無論種々の事情があったにもせよ清貧のなかに彼のいう「経世」の道をつらぬいたことは、彼を生んだ県民の誇りとしてよかろう。
 さて、県における明治二十三年第一回の総選挙以後昭和三年最初の普選までの前後一六回の総選挙の変遷とその実態ならびに政党の変遷に若干の頁をさいた。県下政党系列は第一回の総選挙で定員四人が全員自由党であったことにうかがわれるごとく、以後その系列が常に多数勢力を保持し、自由党県支部から憲政党県支部さらに立憲政友会県支部と展開した。これに対し他方改進党系列は、ようやく第四次『福井新聞』の発刊と機を一にして憲政本党県支部の成立を見、立憲国民党県支部を経て憲政会県支部へ移行、多数勢力たる政友会派の系列と対峙したのであった。そして大正末期の政友会の分裂、政友本党成立に際しては県内政党勢力の構図にもやや複雑な様相を呈することになったのであるが、やがて昭和に入り政友会、民政党の二系列に収斂して第一回の普選を迎えたのである。こうした県内政党系列の動向は県会内の勢力分野の展開をも左右することになった。かかる県内の政治状況に自由党ならびに政友会の重鎮であった杉田の動静が常に大きな影響をあたえたのである。
 我が国近代化の歩みは軍事大国化への歩みでもあった。この約六〇年間に日清、日露そして第一次世界大戦と三つの戦争に県民はまきこまれた。今立町朽飯の上坂家に日露戦争時の数多くの軍事郵便をまとめ「剣光余影」と題した四冊の簿冊が残されている。それは一人の地方名望家の戦争協力の姿態の一面を示していると同時に、それら郵便の多くが戦争の生々しさと、戦時下庶民の苦渋に満ちた実相を我われに伝えてくれるものがある。また上坂家と同様に当時の軍事郵便を各地の旧家の所蔵文書のなかに我われは見つけることができた。そして郵便の文字の背後に横たわっている兵士たちの生の声をかすかに聞き取ることができたのであった。明治の中期から大正の初頭にかけては、戦争と戦後経営との国の歩みに左右され、右往左往した県民の姿を叙述する。
 福井置県後、県内で刊行された主要な諸新聞がこれまでに
かなり収集されており、県史編さんの過程においても多く発見することができた。それは第一次『福井新聞』(明14・10・16〜22・10・10、明20・12・15『福井新報』と改題、( )内の年号は創、廃刊日を表わす。)『雪の夜話り』(明15・5・13〜15・10・20)『北陸自由新聞』(明15・12・10〜16・4・22)第二次『福井新聞』(明22・10・10〜24・6・30)『福井』(明25・2・1〜29・8・30、明28・11・15『福井日報』と改題)『若越自由新聞』(明23・12・2〜31・11・20)『若越新聞』(明31・11・22〜37・11・18)第四次『福井新聞』(明32・8・28〜現在)『北日本』(明37・1・10〜大2・3・1に『福井新聞』と合併)第二次『福井日報』(明45・5・2〜昭7・4・16)などとまた明治三十五年十月に創刊され、大正八年『若州新聞』と改題された『若州』の数か月分などである。もちろんこれら諸新聞が完全に揃って収集されているわけではなく、かなりの欠落年次と欠号があることはいうまでもない。しかしほぼ置県後の県の歩みを通観するための手段としては十分であり、本巻の叙述は多くこれら諸新聞の内容に依拠したのであった。またそれらの欠落を補うために中央の諸新聞を利用した。とくに大正期における『福井新聞』『福井日報』の欠落の期間では『大阪朝日新聞』の北陸版(のち福井版)を利用した。当然のことながら、これら諸新聞の内容についてはその社会的背景、政治的立場への配慮と、ならびに可能な限りそれらの内容を裏付けるための諸史料の発掘による照合が必要であり、各叙述に際して、それらのことに注意を払ったことはいうまでもない。
 この大正期は一般に大正デモクラシーと称せられるごとく民衆の抬頭をみた時代であった。また近代日本の一つの転換期であったことも人の知るところである。福井県においても憲政擁護運動の、さらに普選運動の大きなうねりをみた。また米騒動をはじめ諸種の社会運動の展開を見、農民運動、労働運動の発展をみることができた。大正期の叙述には、これら政治、社会、経済そして文化、教育の各面における県民の対応について多くの頁をさいたのである。
 さて、産業経済面では、我が国資本主義経済の創出と発達にともなう県内諸産業の推移、農・漁村民諸階層の動向をはじめ、商業、金融、交通、土木の具体的な発展過程を、各種統計その他諸資料に依拠し克明に記述した。とくに繊維産業の発展に関しその様相が精しく描かれることになる。明治初期の奉書紬の生産に始まり、大正中期の輸出向羽二重の隆盛をみた繊維産業の歩みは、他の諸産業の中軸をなし、巷間にいわれてきた「羽二重王国」なる県に対する俗称も故なしとしない。たとえば県下金融機関が創成期以来深く、織物金融にかかわり、金融と織物とがその盛衰を分ち合ってきたことをみる。創設間もない福井銀行と同産業とのかかわりに関する叙述は、現今の同行の容姿を見るものにとって若干の感慨を懐かせるに足ろう。しかし同産業の発展も県民に明暗両面の影響をあたえた。「肺結核と女工」という言葉が語るごとく同産業における女子労働の苛酷さもまた人の知るところであった。

 道が人を運び、物を運び、そして文化を運ぶ。道路橋梁の整備、交通機関の発達、電力事業の展開にともなう陸運、海運、郵便、電信、電気等の諸事業の発展は県民に対する近代化の大きな贈り物であった。現在我われが歩いている道路、利用している交通機関等の発達過程の記述を興味深くみることができよう。たとえば敦賀より富山にいたる北陸線の敷設過程、また小浜線の開通までの経緯、さらに各種私鉄の開設過程等の記述は興趣をそそるものがある。
 またとくに宿布水力発電所の竣工に始まった明治・大正期を通じての電気事業の発展、ことに明治三十二年五月福井市に配電が開始されたことは、機械文明の恩恵が県民にもたらされた象徴的事態であったといえよう。しかしこうした機械文明がもたらした明るさと同時に、我われがかつて創り上げてきた古き良き生活の諸相が静かに音もなく消え去っていったことをも知らねばならない。電気が点り、田園を電車が音を立てて走り去っていく。県民の生活は近代化の波のなかに合理化の一路を辿っていった。しかしそこには何か失われていくものがあったのである。
 終わりにお断りしておきたいことが一点、それは本巻全体を通じ、若干記述の重複した箇所のあることである。しかしそのことは重複した項目が本県にとってことに重要な課題であったものと理解していただきたい。



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