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 第六章 幕末の動向
   第四節 幕末の民衆
    一 民衆収奪の強化
      宿駅負担の激増
 江戸時代の後期、越前の各宿では、大名の通行には馬二五匹、人足二五人、大名家中の通行には馬一三匹、人足一三人が、継立人馬として準備されたが、五街道のように助郷はなかった(森藤右衛門家文書)。
 こうした体制によって宿駅は、日常維持されていた。しかし幕末になると、その状況は大きく変化する。弘化四年(一八四七)、鯖波宿は、近村からの助郷徴発を求めた願書のなかで、「諸御用等ハ年々莫太ニ増長仕」と公用が年々増加し宿駅の負担が増しているうえに、「当三月信州地大変」(善光寺地震)のために、それまで北陸道を比較的使ってこなかった加賀藩・大聖寺藩・富山藩さらには越後の諸藩の領主や寺社の公用の往来がおびただしくなったと、通行量激増の理由を記している(石倉家文書 資6)。
 文久三年、今宿・脇本・鯖波の三宿は、「京都表御大変之趣ニ而」「弥増無類之御用多ニ相成」、そのうえ加賀藩その他越後・出羽等の諸大名の家臣が昼夜の分かちなく上京するようになり、その荷物の継立てのため日に五、六返ずつも勤めるので、人足が疲れきってしまい、荷物の滞りが出てきたと、宿駅としての機能が麻痺状態に陥っていることを訴えた(石倉家文書 資6)。
 こうした宿駅機能を回復するために、宿駅周辺の村々に助郷が課せられるようになり、その人数も倍増していった。元治元年(一八六四)八月、安房勝山藩領敦賀郡一〇か村は、助郷役が課された人数は当初二七一九人であったものが、前月の七月だけで二七五〇人にのぼり、年始めからの総数は四三五六人となったとし、助郷人足役の軽減を求めていることからもうかがうことができる(柴田源三郎家文書)。

表177 金津・長崎・舟橋・細呂木宿公用人馬数

表177 金津・長崎・舟橋・細呂木宿公用人馬数

 表177は、慶応元年から同三年までの金津・長崎・舟橋・細呂木の各宿駅において徴発された公用人馬の数である。舟橋の慶応元年と二年を除き、いずれの宿駅においてもほぼ同数の人馬が公用に徴発されている。また、慶応元年から三年にかけて、わずか二年の間に人足は二一パーセント、馬は四五パーセントの増加をみせている。他方、金津宿の慶応元年についてみると、人足九二人、馬一九匹が日々公用として徴発されたことになり、大名の通行のために常置された馬二五匹に達しないものの、人足についてははるかに超過している。また馬についても、大名の通行が日常的なものでないことからすれば、この一日一九匹という数は宿駅にとって過大なものである。このように幕末期の宿駅の負担は、周辺の村々への助郷をも含めて極めて大きく、過重なものであった。



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