目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    二 安政改革と大野屋
      箱館大野屋の利潤
写真156 箱館大野屋

写真156 箱館大野屋

 次項で述べるように、安政六年三月、藩船大野丸の処女航海に乗り組んで箱館に着いた隆佐は、国元の兄にたびたび手紙を出しているが、その中で大野屋のことや箱館の様子について触れている(内山良治家文書 資7)。例えば四月二十一付の書状では、「店」すなわち箱館大野屋も順調にいっており、一昨年から昨年にかけては、土蔵や山蔵(物置)の普請などで入費も掛かり、今年も樺太のことなどで混雑しているが、やがては相応の結果は見込めるだろうとしている。また五月二十七日付のものでは、「店の取締り方は十分よろしく、林外字次郎・伊藤禁之助は出精し、四人の子供(丁稚)も魚が水を得たごとく、元気よく働いている」と書き送っている。
 また箱館の活況ぶりについては、すでに「魯西亜の町か」と見紛う程で、ロシア人は、一〇年を待たずして日本人に「筒襦袢」を着せてみせるといい、新たに築造した台場を見て、この程度のものなら玉五発で「ぐわらぐわら」と潰してみせると豪語しており、隆佐は「もはや恐れながら、日本もとても無事ニ而ハ治り申間敷」く、結局「被髪左衽遠キに非す」と感想を洩らしている。
 さて箱館大野屋の営業内容は表168のとおりであるが、開店翌年の安政四年から明治六年(一八七三)までの利潤をみると表169のようになる(両未満切捨て)。この勘定書は、明治七年三月「箱館 大野六兵衛」の名で調えられたものである。取引きの内容もわからず、大坂大野屋ともまったく史料を異にするので比較のしようもないけれども、まずは順調に利益を揚げていったとみてよいのではあるまいか。二年目は六三両であったものが、翌年は三倍以上になり、途中中弛みはあるが元治(一八六四〜六五)から明治にかけて二、三倍となり、とくに三年以降急増して五年には六〇〇〇両を超え、総額一万九四七四両に上った。

表169 箱館大野屋の利潤

表169 箱館大野屋の利潤



目次へ  前ページへ  次ページへ