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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    一 大野藩の天保改革
      土井利忠の襲封と入部
写真149 土井利忠像

写真149 土井利忠像

 土井利忠は文化八年(一八一一)四月三日江戸で生まれた。父が利義(としのりともいう)であるから大老井伊直弼の従兄にあたる。幼名は錦橘、文政元年(一八一八)八歳の時利忠と改めたが、義兄の利器が病んだためその急養子となって襲封した。父が寛政十一年(一七九九)利器を養子として迎え、隠居したあと生まれたので嗣子たりえず、もし兄が健在であれば藩主の座を襲うことはなかったかもしれない。
 この後利忠は文久二年(一八六二)五一歳で隠居するまで、四四年間にわたって藩主の座にあった。この間天保改革を行い、内山兄弟を登用し、各地に大野屋を設置したほか、大野丸の建造、北蝦夷地の「開拓」、洋学の採用など積極的な施策を展開して、奥越の小藩の名を全国に高からしめたのである。
 他方、利忠が襲封した時期は財政難がその極に達したときでもあった。すでに述べたように年貢の収納は早くから横這い状態であり、さらに利器の時には、大野・江戸とも「必至の差し詰まり」といわれ、江戸への送金も十分できず、家中への「渡し物」も不足するほどであったという(「利器譜」土井家文書)。利忠はこのような状態を受け継いだわけで、「減知減給」はほぼ恒常化していたし、文政三年には厳しい家中倹約令を出している。なお倹約令は、この後も繰り返し布達された。
 利忠は江戸で育てられていたが、一七歳になった文政十年頃から大野への「御初入」が取り沙汰され始めた。三月には、利義・利器とも短命に終わったので、利忠には長生きしてもらわなければならないというので、「時節柄不都合」でもあろうが、初入りに備えて住居を建て替えておくようにと江戸から通達が来ている。十一月には徳川家斉への初御目見も首尾よく済み、十二月には従五位下能登守に叙任された。
 入部は文政十二年七月九日であった。この日二時頃大野に着いた利忠は、とりあえず宿に当てられていた瀬古清左衛門方へ入ったが、やや暑気に当たり、行水もせず、大野城への「登山」も延期したといわれる。十五日から菩提寺の善導寺へ参詣したほか、家中への引見も済まし、八月七日から領内の村々を巡視し、十月七日には城下近郊の新田野で行われた「火術」、すなわち藩士による砲術を見物している。十二月十九日には、初入りその他による「入用莫大」という理由で、五年間の「減知減給」が命じられた(武田知道家文書)。



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