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 第六章 幕末の動向
   第一節 松平慶永と幕末の政局
    一 慶永の襲封と改革
      倹政への反発
 とはいえ、こうした厳しい倹政には、強い反発も生じた。とくに前記(8)(9)に見える地方知行・蔵出知行に関する改革は、上・中級藩士の間に、大きな不満を引き起こした。地方・蔵出両知行制は、いわゆる扶持米取・切米取といった下級藩士の給与制に優越する、父祖以来の名誉ある特権であり、実収の上でも藁代・雪垣代といった雑税の徴収権があるなど、下級藩士のそれよりはるかに優越していた。立案者の雪江としては、少しでも藩庫を潤す方策を考え、その一つとしてこの知行制廃止を強硬に実施したのであったが、家代々の名誉を剥奪されたことに対する不満は非常に強く、城内は騒然となった。そのため弘化二年三月、禄制は旧に復され、混乱の責任をとって、雪江が一時期その役職を罷免される事態にまで発展した。
 雪江は『奉答紀事』天保十三年の項で、勝手掛として財政の復興を目指すに当たり、すべての施策の中心に倹約の二文字を据え、「御家政向御簡略之義数百端にて、会計簿上の予算にてハ、非常の御入用だになくバ、数年ならずして、稍御量成の御目途も相立べき歟といへる斗りに」計画を進めたと述べている。当時一五歳の少年藩主慶永も、そうした財政復興策を先頭に立って遂行する決意を固め、「益御奮励あらせられ、五月朔日より思召にて、御一汁御一菜にて御膳被召上事になされたり」といった模範的態度を示して、節倹を督励した。藩内には時に右のような反発が表面化することもあったが、大筋としては一丸となった復興努力が展開されたのである。
 こうして藩財政は次第に復興の兆しをみせた。しかし、最後まで完全な黒字へと転換することはなかった。松平文庫に所蔵する「再調平常量制本払仮積帳」は、慶応年中の歳費仮見積書であるが、混迷する政情を反映してか、京・江戸における慶永や藩主茂昭の「御勤御入用」「御武備御入用」などの費目が嵩み、藩として十分の活動を行うためには、なお二万一九〇〇両余の不足が見込まれている。



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