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 第五章 教育と地方文化
   第二節 地方文化の展開
     三 寺社参詣の普及
      湯治
 旅の行程としては短いが、湯治と称して近くの温泉場に出かける風潮も次第に広がっていった。細呂木役所通行手形の請状などには、通常は書くべきはずの切支丹でない旨の断り書も書かれていない。かといって特別な理由が書いてあるわけでもなく、ただ「湯治仕度」「入湯仕度」などの文言がみえるだけだが、村役人に願い出れば例外なく認められた。もちろん、病気治療のため眼病のためと断っている例や、耕作に差障りがないのでと、但書が記されている例もわずかだがある。農商の身分や階層にかかわりなく、湯治にはとくに女性が多く出かけている。
 当時は越前には温泉がなかったため、隣国の加賀に出かけた。行先はほとんどが山中で、時には粟津にまで足をのばすこともあった。白山禅定を兼ねて牛首の白山温泉に出かけることもままあった。山中入湯の場合は細呂木関所通行手形が必要であった。手形には帰り次第返却するとあって日程は書かれていないが、短くて一〇日間長くて一月間の滞在であった。短時間で往来ができるため、女一人の例もかなり見受けられるが、近所の者とあるいは親子で三人四人と連れ立って出かけることが多かった。
 若狭では但馬の湯島(城崎)温泉や摂津の有馬温泉に出かけた。大飯郡上下村の源七は病弱のため、小浜に出向いて薬による療治を試みたが効果がなく、弘化二年四月十一日から五月二十日まで湯島村まで湯治に出向いた(村松喜太夫家文書)。
 長期にわたる湯治の例を一つあげる。勝山町の商人松村由兵衛は嘉永三年九月十四日に出立、十五日に山中俵屋に到着、十月十二日に帰宅しており、ほぼ一月間療養している。天保三年・同十四年・嘉永元年にも当地に赴いており、俵屋には馴染みの客となっている。これらはまとめて「湯治中日記」(松屋文書)として残されており、その間の行動や支出品目を具体的に知ることができる。例をあげると途中吉崎に参拝の記事、揚弓屋に出かける記事、貸本屋の記事、国元からの見舞客の記事、浄瑠璃を聞く記事などが散見される。嘉永三年の場合、支出費目で目立つものとしては、三日に一度の髪結代・魚代・油代・酒代などが、まとめて支払う費目としては、湯銭および六畳と三畳二部屋の畳代三貫一五〇文、夜着代一貫一一〇文があがっている。総経費は湯入用として一八貫六〇〇文、土産買物代九一〇文、手間入用・買物代二貫五〇〇文、芸者代一貫文で合計はほぼ二三貫文となっている。



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