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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
     二 兵学と武芸
      鯖江藩・勝山藩・丸岡藩の武芸
写真111 馬術指南絵巻物

写真111 馬術指南絵巻物

 鯖江藩の「寛政改御家人帳」(間部家文書)などによると、剣術は直心影流が採用され、師範役に西島舟平・舟助、高木候治郎・周吉等がいた。弓術では日置流道雪派の冶田平之丞、和儀術(柔術)では無拍子流の樋口藤太夫、砲術では荻野流の斎藤文平・伊東左盛・岩橋純吉等がいた。鎗術では郷司松造や一刀流の草間宗僊がおり、江戸でも指折りの達人で通っていた。馬術では大坪流が採用され、師範役に岸松信左衛門・脇本藤太等がいた(『鯖江郷土誌』)。また、安政三年十月松本五郎が大野藩洋学館に入学し、砲術修行をしている(「各藩ヨリ大野洋学館ヘ入学人名録」土井家文書)。
 また、鯖江藩では、馬術の稽古の一方法として「打毬」が行われていた。これは、数人が騎馬で二組に分れ、場中に置いてある数個の紅白の毬の中で自己の組に属する毬を打毬杖ですくい取りつつ、又一方で敵のすくい取るのを妨害し、設置された毬門に投げ込み、所定の数を早く終えた方を勝とする競技である。現在のポロ競技に似たものであろうか。打毬は他の藩でも行われたが、鯖江藩のものはとくに実戦そのままで、観衆をして手に汗を握らしめる妙技であったという(『鯖江郷土誌』)。「馬術指南絵巻物」(岸松家文書)にその様子が残っている。
 勝山藩については、脇屋家に武芸関係の史料がいくつか残っている。脇屋家では主に弓術が代々行われたようである。享保七年(一七二二)三月に脇屋団助が「日置流弓秘伝之書」を伝授された。明和三年と七年の弓始式では、「時之御師範」は脇屋金之右衛門となっている。さらに天保七年四月には脇屋伝左衛門が「大和流弓術目録」を、同十二年には脇屋右馬介が「大和流射術免状」を受けている。年不詳だが、小笠原流弓術の目録も脇屋八兵衛が伝授されている。弓術以外では、享保七年に脇屋金六郎が伯耆流居合術の目録を受け、文化十四年には脇屋八兵衛が「真心陰流兵法目録」を受けた。また、年不詳であるが脇屋伝左衛門が宝蔵院流鎗術の「十文字鎌兵法目録」をうけている。
 嘉永三年波多野秀雄、野尻和介が大野藩の小形元助に入門して西洋砲術を学んでいる(松井家文書)。また、安政四年二月には宮川直江を大野藩洋学館に入学させ、砲術修行をさせている(「各藩ヨリ大野洋学館ヘ入学人名録」土井家文書)。他に、勝山藩では弓術や馬術の習練として流鏑馬、笠懸なども行われていたようである。
 丸岡藩では、『有馬家世譜』によれば、有馬誉純が寛政元年に鷹屋七之丞から御流儀鎗術の伝授を受けている。天保十二年には温純が柳生家に剣術入門した。また道純は安政四年に西洋流砲術師範江川太郎左衛門に入門している。さらに慶応二年(一八六六)には、空心流砲術、山鹿流軍学、荻野流砲術を廃して西洋流銃隊を採用するよう命じている。また、安政三年五月笹木仙蔵を大野藩洋学館に入学させ、砲術修行をさせている(「各藩ヨリ大野洋学館ヘ入学人名録」土井家文書)。
 他に幕末の丸岡には武芸の達人として、剣術の佐藤慶治、鎗術の津隈宇総二、弓術の岡田金之丞、居合術の伴沢又右衛門、柔術の矢野花衛・伊東駒市・田中辰之助、鉄砲の小川継右衛門・西村清吉などがおり、いつも稽古場はにぎわっていたという(『丸岡町史』)。



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