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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     二 文化・文政期の百姓一揆
      「大野大乱」
 勝山藩の大庄屋の記録(比良野八郎右ヱ門家文書)に「大野大乱之事」として、文化六年(一八〇九)八月一日頃から「郷美濃むし(蓑虫)起し、町在同心ニ而御家中諸役人ニ対シ之事ニ御座候」とあり、続いて手負い一八人、死者も三人あったような記述がみえる。激しい百姓一揆が起こったことがうかがえる。だが、大野藩はこれに関する記録等の隠滅を図ったように思われ、この一揆を直接知ることのできる史料は藩庁文書の中にはほとんど見当たらない。ここでは町方の庄屋・大庄屋などの用留等を手がかりに原因や経過を追ってみる(『大野市史』用留編)。
 発端は藩主土井利義が突然隠居を言い出したことにあったらしい。彼は文化六年になっても病気がちであり、やがて藩主が隠居を希望し、他家から養子を招こうとしているとの噂が国元の領民の間に広まった(土井家文書)。このため領民は藩主が隠居を思いとどまるよう運動を始めた。同年八月六日には「郷中一統」江戸へ「御機嫌伺」と称して、これを訴えに出るとの話が町役人にも伝わってきた。
 その翌日、突然城下南の方から代官町へと百姓たちが押し寄せた。彼等は代官町で奉行・代官たちの説得にあい、一応納得して引き上げた。しかし、その日の六ツ時、再び現れて町へ乱入し、駕篭屋・綿屋・五番の紙屋を打毀した。怪我人も出るなど、大野城下としては「前代未聞」の騒動であった。八日には郡上藩領下麻生島村の河原に集まり乱入してくるという話があり、町内惣寺院方に依頼して説得する準備を整えた。しかし、これは噂に終わり、何事も起こらなかった。九日、家臣の岡田八郎右衛門(輔幹)・宮崎代右衛門が町惣代二人、在惣代八人を連れ江戸へ出発した。藩側が七日に百姓たちに説得した折の約束に従い、改めて町・在一統として藩主に隠居を断念するよう懇願するためである。
 九月に入り藩主の直書が領内に布達された。領民の藩主への思いを「生涯忘間敷」と述べるとともに、今度のような騒動は「自分不行届」と同じで幕府へも恐れ多いとし、また、病気全快とはいかないので隠居の予定であり、これらを理解してほしいという内容である。領内はこれで一応落ち着いたらしい。藩は厳しい処分をとらず、小前百姓へ説諭を行うにとどめ、明和六年(一七六九)や寛政九年(一七九七)の百姓一揆禁止触を再度通達して終わりとした。なお、大野郡味見谷の中手村枝村清水村の源右衛門が頭取とされ、家財欠所・家族全員追放となったとの記録があるが(石渡文書)、これを傍証できる史料はない。
 以上がこの一揆の概要であるが、原因が判然としない。「大野大乱之事」では「御家中諸役人」に対して起こったように記しているが、これも他に証明するものがない。一つ考えられるのは財政問題である。この頃藩財政は「莫大の御不足」といわれ、家臣団への借米や領内への調達金が絶えなかった。利義が家督相続した翌年、岡源大夫が「御勝手御用懸り」に任命され、財政緊縮を進めたが、結果的には家臣団への扶持米渡しも滞り、家中に不穏な空気が漂うようになった。源大夫を批判する落書もあったという(横田家文書 資7)。このような時、藩主の隠居とそれにともなう他家からの養子縁組に要する費用調達がささやかれ、領民は「近年打続余計之金子調達」と不満を漏らし始めていた。この結果百姓・町人の間から藩主隠居を断念させようとする運動が盛り上がり、藩主の我侭を批判して打毀しに及んだのではないかと推測されるのである。もっとも、打毀しにあった三軒の商家がどのような性格の家かなどは不詳である。
 いずれにしろ、大野藩として由々しい騒動であったことは間違いない。三年後の文化九年四月、騒動に際して村百姓を宥めるのに功績があったとして、領内中津川村明石甚兵衛や大宮村宗次郎に褒詞を贈っているが(笠松宗右衛門家文書資7)、この時点ですべてが結着したことを意味するのであろうか。なお、大野藩ではこれ以後百姓一揆が起こることはなかった。



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