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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    三 商品流通の新展開と越前・若狭
      荷所船主右近家の廻船業展開
 後年、「北前五大船主」の一人とも称されることのある南条郡河野浦の右近権左衛門家では、廻船業の転機が天明・寛政(一七八九〜一八〇一)期に一度訪れている。なお、それまでの代々の権左衛門は、他の河野浦の者と同様に、近江商人の荷所船として活躍しており、元文(一七三六〜四一)から宝暦期にかけて近江八幡の西川伝右衛門の荷所荷を積んだ船にその名を見いだすことができる(西川伝右衛門家文書、関川家文書)。
図16 河野浦右近家の資産(1784〜90年)

図16 河野浦右近家の資産(1784〜90年)

 右近家の「万年店おろし帳」によれば、天明期には従来の敦賀湊向けの荷所荷輸送のほかに、買積した鰊を敦賀湊とともに大坂でも販売していたことを確認できる(右近権左衛門家文書)。好調な廻船経営を反映して天明・寛政期の資産が図16のように伸びているのは、買積経営の比重を増やし販売先を拡大したことによるものであろう。寛政八年の冬には、これまでの弁天丸に加え四〇〇石積の弁天小新造を二三貫匁を投じて建造し、さらなる経営拡大を図った。もっとも、寛政十二年には弁天丸が江差湊沖で破船して中荷金二八〇両余を失い、取引先である敦賀湊の天屋・網屋のほか、大坂の阿波屋久兵衛・布屋徳兵衛・丹波屋平兵衛などにも借銀が残る結果となった(右近権左衛門家文書、河野区有文書)。布屋や丹波屋は木綿問屋として知られており、木綿荷物の輸送に弁天丸が利用されていたとも考えられる(「浪花買物独案内」)。右近家が名実ともに大船主となるのはまだ先のことである。
 



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