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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    五 様々な特産物
      生糸・絹織物
 中世以降に織物の技術が広まり、やがて越前では福井などの都市部では比較的高級な絹織物の生産が盛んになった。
 永禄十一年(一五六八)に足利義昭を一乗谷に迎えた際、朝倉義景は練貫一〇面、白綿一〇把を献上し(「朝倉始末記」)、天正二年(一五七四)織田信長は北庄の唐人座、軽物座の役銭として「上品之絹」一疋ずつを納めさせ、柴田勝家は北庄の豪商橘家が取り扱う絹の運上について指示している(橘栄一郎家文書 資3)。また、慶長六年には、初代福井藩主結城秀康の入国を祝って福井城下の町人が羽綿を献上しともいわれる(『国事叢記』)。この頃は光絹・絹平・玉紬等の絹布が土産品として用いられたといわれる(前『福井県史』第二冊第二編)。これら中世末から近世初頭の絹や絹織物は越前において生産されていたものであろう。
 松平忠昌が越後から移って福井藩主となった寛永元年、家中の侍衆の着物については、越前に産する撰糸(薄地の絹織物)・羽二重・ほそり・絹・紬を用いるよう定めており(「家譜」)、国産の絹織物が支配層に広がっていく様子がうかがわれる。当時すでに絹は越前名産の一つにあげられている(『毛吹草』)。福井藩では中流以下の士卒の家族が内職として絹織物を織り家計の不足を補ったという(前『福井県史』第二冊第二編)。
 寛文二年福井藩は、領内各村で生産された糸綿の国外移出を禁じたうえに、さらに大野・丸岡・松岡など他領への販売をも禁止し、福井の商人と売買するようにとの法令を出し、絹の生産を規制するとともに保護奨励した(上田重兵衛家文書 資7)。これより先寛永三年に幕府は、絹・紬の一反の寸法を全国的に統一して、長さは大工曲尺三丈二尺、幅一尺四寸にすると規定している(「家譜」)。寛文五年頃の全国の絹の主な産地として、京都・堺・美濃・加賀・丹後・筑前・上野・下野・越中・但馬とならんで越前があげられており(『大阪市史』、『工芸志料』)、越前の絹が国外各地に知られていた。同八年の『国事叢記』に記された越前の産物三五品種の中にも撰糸・絹糸がある。
 その後、享保(一七一六〜三六)から明和(一七六四〜七二)年間には、坂井郡三宅村の大島弥次兵衛が福井に出て糸頭紬を製織しており、その子三宅丞大夫は寛政(一七八九〜一八〇一)の頃北庄紬・柳条紬を織っていたが、製品の質が精緻で色が奉書紙のごとく純白な織物が織られるようになったので、奉書絹と呼ばれ諸国に広まったという(「福井絹織物機業沿革碑文」 資10)。
写真68 機業碑

写真68 機業碑

 享保十五年の頃、京都絹問屋は内部が加賀・越前・関東・丹波の四組に分かれており、加賀・越前の絹織生産は領主支配のもとに強く規制され、都市商人資本の支配が強かった。また、大坂へ絹を送った国々に上野・加賀・丹後・甲斐・山城・常陸・越前の名がみえる(『大阪市史』)。宝暦八年(一七五八)福井藩の御用商人として来福した大坂の商人橋本長右衛門等五人が拝領した品の中に国産の絹織物があげられ(『国事叢記』)、国産の絹が都市商人への高価な引出物として用いられていたことがわかる。
 寛政十一年二月福井藩では、国産の絹類・布木綿などの他国移出を禁じ、他国から入る絹類の口銭を取ることにして国産奨励と財源の拡大を図った。五月には絹糸目方一〇〇匁につき銀一分の判賃の上納を定め、糸問屋一軒に一か月銀五匁、仲買一人に一か月銀一匁の株銀を納めさせ、絹銀高一〇〇匁につき銀五分、生糸目方一〇〇匁につき銀一分ずつ運上銀を取ることとした。同年六月には領内で生産された生糸の改会所を設立することとし、町方の慶松太郎三郎・発坂屋次郎三郎・斎藤八郎右衛門の三人に糸改会所役を命じ、国内・国外の糸売買をする者はすべてここで改めて印形を受けることとし、生糸の藩統制を強化した(「家譜」)。また、享和元年(一八〇一)十二月には家老より藩内の絹問屋の取締りについて、(1)福井町方の絹問屋は従来どおり六人とするが、運上銀は廃止し一人一か年五〇匁上納の株札を渡すこととする、、(2)絹仲買は今後一人一か年五匁上納の株札を渡し、人数はこれまでのとおりとする、(3)糸改会所は廃止し、新たに糸仲買には一人一か年一五匁上納の株札を渡し、人数はこれまでのとおりとする、(4)村方の絹問屋・絹仲買・糸仲買も町方と同じとすると申し渡している(同前)。
 安政五年福井藩目付から家中へ、国産の奉書紬が多く生産されるので着用するようにと申し渡し(『続片聾記』)、同年三月「国産糸紬趣法」を出し家中の機屋を内職とする者は改めて鑑札願を出させることにして、品質の向上と統制を図った(『稿本福井市史』)。
 安政六年福井藩は長崎に越前蔵屋敷を設けオランダ商館に生糸・醤油などを販売した。同年福井では三宅丞四郎を織業総代とし、染織工数十人を雇い奉書条絹・甲斐条絹・絹平などを織らせ、さらに文久二年(一八六二)には物産総会所の肆長に任じ絹織物の生産に尽力させた(「福井絹織物機業沿革碑文」 資10)。
 越前では、生糸の生産は山村を主として各地で行われていたが、絹織物は福井城下が主で、次いで大野・勝山での生産が目立った。勝山三町では天明四年(一七八四)加賀小松へ、絹機商売のため三、四人が出かけている(「三町万留帳」福井大学附属図書館文書)。また、幕末期の大野藩で生産された絹織物は箱館商館に送られていた(前『福井県史』第二冊第二編)。明治五年頃の足羽県での絹織物の主な産地は福井市街と大野町であり、福井市街では奉書紬の年産額は一万疋(一疋は値三両一分三朱)、他に奉書紬紋織・奉書紬七子織を織り、大野町では奉書紬三三〇疋ばかりを生産していた(「足羽県地理誌」)。その後、奉書紬は絹羽二重織として県内各地で盛んに織られ、海外輸出品の代表的な産物となったのである。



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